私が住んでいる長崎は、日本の西の外れにありますが、西日本と東日本には色々な面で違いがあることが知られています。
例えば餅の形。
西日本は丸餅ですが、東日本は角餅です。
また、灯油などを入れるポリタンクが、西日本は青色が主流ですが、東日本は赤色が主流です。
◯灯油用ポリタンクは「東日本→赤」「西日本→青」 では境界線は?
うどんの出汁も、西日本はアッサリとした透明なつゆですが、東日本はコクのある濃いつゆです。
そういえば、電源周波数も違いました。
西日本は60Hzですが、東日本は50Hzです。
◯電源周波数は東日本と西日本で違う?引越し前に家電製品を確認!
まるで、一つの国土の中に異なる二つの国の文化が存在するみたいです。
今から1500年〜1300年前の日本には、実際に西日本と東日本で別の国が存在していました。
西日本の国は奈良県あたりを中心とする大和国ですが、東日本には関東の方に大きな国があったそうです。
中国の古書『旧唐書』には、東日本にあった国のことが書かれていました。
驚いたことに、その国は『日の昇る方角にある』から『日本』と呼ばれていて、私たちが耳にしたことのある『倭国』とは別の国だったそうです。
以下、ここでは旧唐書に書かれていた国を『関東日本王国』と呼ぶことにしますが、関東日本王国の特色として、騎馬による戦闘を得意としていたようです。
しかし、魏志倭人伝によると、その頃の日本には馬がいなかったそうです。
つまりこの馬たちは、外国から持ち込まれたのです。
では、日本に馬を持ち込んだ国はどこでしょうか。
下記リンク先の番組によると、関東日本王国の王の墓は『高麗尺(こまじゃく)』の寸法を基準にして造られていたそうです。
つまり、この王国の人々は、当時朝鮮半島にあった『高句麗』から渡来してきたようです。
高句麗について調べてみると、『高句麗』とは『高』氏が作った『句麗(=城)』という意味だそうです。
『高』氏については、下記リンク先にも記事がありました。
また、こちらにも記事がありました。
仮に関東日本王国の王が高句麗から来たとすれば、彼らのルーツはユダヤ人であり、王の血流に属することになります。
現に、埼玉県の生出塚窯跡から発掘された埴輪を見ると、鼻が大きく、目が垂れています。
また、千葉県では、帽子を被った埴輪が出土していますが、その様子はどう見てもユダヤ人です。
また、日本の方言を分析すると、関東地方と近畿地方では別の文化圏が存在したようです。
○松本清張 『砂の器』 ~出雲弁と東北弁 その類似性の謎を読み解く~ 斎藤成也『日本人の源流』
さらに、遺伝子を解析すると、西日本の人(下の図では出雲ヤマト人と呼んでいます)と東日本の人(関東ヤマト人・同)では遺伝子的に少し離れています。
つまり、同じ国に住んでいますが、関東と関西では遺伝学的にも相違が見られるのです。
関東日本王国には、強大な権力を持つ王がいたようです。
王の副葬品として、黄金の冠や黄金の靴、黄金のベルトが古墳から発掘されています。
さらに、埼玉県北部にある稲荷山古墳からは、鉄剣と勾玉、それに銅鏡が発見されています。
Wikipediaでは、鉄剣に刻まれた『獲加多支鹵大王』を『雄略天皇』としていますが、鉄剣には『獲加多支鹵大王』は『斯鬼(シキ)宮』に住んでいると書かれてあります。
しかし、『雄略天皇』の宮は『泊瀬朝倉宮』であり、『斯鬼宮』ではありません。
○原日本紀の復元018 稲荷山古墳出土鉄剣の471年説・雄略天皇説を否定してみる〈2〉
おそらく、『雄略天皇』と名前が似ている『獲加多支鹵大王』が、関東日本王国を統治していたのでしょう。
また、同じ稲荷山古墳からは、勾玉と銅鏡も出土しており、いずれも国宝に指定されています。
勾玉に剣に銅鏡…そうです、『三種の神器』です。
『三種の神器』とは、天皇が代々引き継いできたものでした。
それが発見されているということは、天皇に匹敵する権力を持った王がいたということでしょうか。
実は、この『関東日本王国』の中心地は現在の群馬県にありました。
そうです。
『関東日本王国』は、もしかすると『群馬人脈』のルーツかも知れないのです。
次回から『群馬人脈』について詳しく調べたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
皆様に神様のお守りと救いがありますように。
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