Mottainai(もったいない)、kaizen(改善)…など、海外で好意的に取り上げられている日本語はいくつかありますが、「ikigai (生きがい)」もその一つです。
特に昨年、新聞・雑誌でよく紹介されていたのがこの言葉でした。
自分自身の存在意義や生きる意味を見いだし、仕事、家族、趣味、人間関係など生活全般にわたって充実した人生をおくろう、といったコンセプトで紹介されていました。
読んでいて、「仕事や家庭など、自分が求めていたものは一通り得られたが、なぜか虚しい」という人や、高齢化が進む世の中にあって「身体は健康だけど、心に虚無感や不安を抱えている」といった人が、どこの社会でも多くなっているのだと感じました。
また、私の周りでは最近、安定した職に就きながら、わざわざ勤務時間を短縮し副業で趣味や特技を活かして開業する人たちが何人かいたのですが、その人たちが共通して、「生きがいを感じたい」、「自分の天職を探していた」と言っていたのが印象的でした。
そして、私自身も、フルタイムでオフィス勤務をしていた若い頃からずっと、一生かけて打ち込めるような、自分ならではのライフワークのようなものを求めていたことを思い出しました。
特にその思いが強くなったのが、出産や子育てを経験してからのことです。
退職後の家庭の主婦としての生活にはそれなりに満足していたものの、「今は忙しく毎日に張りがあるが、子どもが自立したら自分にはいったい何があるのだろう」、と考えるたびに何だか憂うつな気分に陥ってました。
また特に、その時期は、さまざまな育児本や関連する心理本を読む中で、自分自身が子ども時代から抱えていた「生きづらさ」のようなものの原因がわかりはじめ、この経験を活かして、何か人助けになるような仕事ができないかと模索していました。
しかし、実際の自分は、関連するスキルも資格もないうえ、フルタイムの仕事から離れて久しく、社会との繋がりも限られている状態でした。
ただ、たとえゼロからでも、可能性があるなら何でもやろうという意気込みだけはあったので、自分なりにいろいろと調べた結果、その分野では最難関と言われる国家資格を取ってしまおう、と決めました。
誰でも簡単に取れる資格では仕事としてやっていくのは難しいだろうが、その難関資格を持てば、きっと一人前の「専門家」として自分の言うことにも耳を傾けてもらえるだろうから、人の役にも立てるだろうと期待してのことです。
当時は、人生を変えたいなら、手をこまねいていないで、努力して自力で道を切り開くべき!みたいな気負いが強くありました。
しかし、猛勉強の末に大学への社会人入学まではこぎつけたものの、その後は面白いほどにうまくいきませんでした。
まず、入学した1年後に方針が変わって学費が大幅にアップし、予め用意していた資金ではやっていくのが難しくなりました。
それでも、折角ここまで来たのだからと、なんとか工面し学業を続けていたのですが、今度はストレスと過労で体を壊し病院通いになったこと等が重なり、結局、途中で退学することになってしまいました。
努力も費用も無駄になった上に、「もっと別の道があったのではないか」、「同じ期間にパートでもした方がまだ良かったのでは」といった機会の損失まで考えたら本当にやるせない思いがし、この挫折の経験を通して、私はそれまで信じていた考え方を見直すようになりました。
もしかして、人生を変えようとすること自体が間違いで、できることをできる範囲でやればいいということか?
生きがいというものは、日常のささやかなことに見つけるべきなのかもしれない・・・などと、一時期は考え始め、以前は否定していた「自分を無理に変えようとしなくていい」といったスピリチュアル系の文句を見ては、そうなのかもね、と思うようになっていました。
しかし、ちょうどそんな時期にRAPTブログに出会い、受け身で無気力になりかけていた自分から抜け出すことができたのです。
RAPTブログの有料記事で、人間は、天地万物を創造してくださった神様に頼り、神様の言う通りに生きてこそ、確実に幸福を掴み取ることができると教わり、自分は努力する方向性や目的を履き違えていたことがわかりました。
現実を変え、何かを成し遂げるために100%全力の努力が必須であることは当然ながら、人間がどんなに真剣にがんばっても、自力でできることなど限られていたのです。
これには、「何事も自力で」と長年信じてきた自分には少なからずショックでしたが、RAPTさん自身が、何十年にもわたりキリスト教を真剣に実践することで、普通の人では成せないような数々の功績を立てられてきた方なので、そのRAPTさんの伝えてくださる御言葉の内容1つ1つが胸に響きました。
何より、自分の限界まで努力しても自力では何も得られなかった、という痛い経験をした後だったので、元々どちらかと言えばキリスト教には偏見が強かった自分でも、お話の内容に納得するしかありませんでした。
そして、必死の努力も、神様の御心を叶えるため、神様のおしえに聞き従ってこそ、神様が全力で応援してくださってはじめて大きく開花し、次元を上げられるのだと知ると、人生を大きく開くために努力することがふたたび楽しくなり、さまざまなことに精力的に挑戦するようになりました。
◯RAPT有料記事440(2020年2月1日)常に主に合わせて変化し、成長してこそ、この世がどんなに激しく変化したとしても、常に成功し、栄えて生きることができる。
○ RAPT有料記事693(2022年10月29日)自分の人生をより良く変えたいなら、神様の御言葉に従順に従いなさい。そうしてこそ、神の力が強力に臨み、あなたの人生が大きく栄えていく。
○ RAPT有料記事1(2015年8月3日)人生の願いを叶えるために必要な幾つかのこと。
○ RAPT有料記事190(2017年7月17日)適当にやっても全力でやっても、同じ結果だと思うな。その違いは歴然としている。
先月開かれた第3回目のZoomの集まりで、RAPTさんは「聖霊を豊かに受けている人は、神様から力を受け、知能が高くなり、大きな使命を果たすことができる」という内容のお話をしてくださいました。
私自身、これまで神様のために役立ちたいと、自分にできることを見つけ自分なりに努力しながらも、すべてを自分の力でやろうとしがちで、そうすると、どうしても限界にぶつかり行き詰まってしまっていましたので、改めて「同じ努力でも、先ずは、聖霊を常に受けるために努力しよう」と決意しました。
実際、RAPTさんの下で御心を成していらっしゃる兄弟姉妹の方々とご一緒させていただく中、聖霊を豊かに受けている方のところに、使命が次々と舞い込んでくる様を見せていただき、本当に目を見張るものがあります。
また、自分自身はまだまだですが、任されたお仕事に取り組む際に、以前からの自分の弱点である「できない」という気持ちになりそうになるたびに、「自分にはできないけれど、神様と共にすれば必ずできる」と思い直して祈り求めるたびに、聖霊を感じ、物事が解決したり、前に進めたりするという体験を幾度もさせていただいています。
○ すぐに「できない、できない」と言う人は謙虚なのではなく、自信がないわけでもない。むしろ高慢なのである。
さらに、これまで自分が努力して得た「荒削りの経験やスキル」さえも神様が活かして使いこなしてくださっているのを感じ、「神様のために」と思って真剣に実践していけば、どんな努力も必ず報われるのだと確信しています。
○ RAPT有料記事397(2019年8月12日)世の人々は努力してもほとんど何も報われないが、私たち義人は努力した分だけ何倍にもなって報われる。これこそが主の救い、主の祝福だ。
やりがいのある仕事を見つけ、生きがいのある人生を送るために、神様と疎通し、聖霊を受けることは必須条件ですが、その方法を教えてくれるのは、この世で唯一RAPTさんが伝えてくださる御言葉だけです。
どうか、より良い人生を求める全ての方がRAPTブログに出会い、充実し、喜びに満ちた人生を送ることができますよう心から願っています。
◯【第35回】ミナのラジオ – 神様を信じてお祈りすると、病気も治り、若返り、それまでできなかった
ことができるようになり、日々、新しい自分に生まれ変わることができる!! – ゲスト・NANAさん
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