【連載小説】プレトとルリスの冒険 – 「第29話・マッチポンプ」by RAPT×TOPAZ

【連載小説】プレトとルリスの冒険 – 「第29話・マッチポンプ」by RAPT×TOPAZ

プレトは吐き気に襲われた。テントのファスナーを開けて、頭だけ外に出す。すると、口から液体が出てきた。昨夜から何も食べていないので、胃液に違いない。口の中が苦くて酸っぱい。最悪だ。
ルリスがそれに気づいて悲鳴のような声を上げると、こちらに駆けつけてきて背中をさすってくれた。フーイに「そいつをなんとかしてよ!」と叫んでいる。
プレトはえずきが止まらなかった。毛玉を吐こうとしている猫になった気分だ。いや、猫はこんなに苦しまずに吐いているだろう。猫が羨ましい。男たちが何か言い争っているようだが、自分のえずきでうまく聞き取れない。
なんで。どうして。つい数日前まで、のんきに研究所に通っていたのに。特に問題も起こさず、平穏に生活していたのに。こんなことに親友を巻き込んで、一体、何をやっているんだ。食道と喉が胃酸でやられて、ヒリヒリする。
男たちの会話が耳に入ってきたが、ひたすら「やった」「やっていない」の繰り返しだった。なんの実りも、収穫もない会話だ。
ルリスがゆっくりと、立っているパンデアに近付いていくのが見えた。両手を器のようにしている。その両手を、パンデアの左側頭部になすりつけた。なすりつけたものは、粘度のある液体らしかった。砂と土と葉も混ざっていて、男の頭から糸を引きながら滴っている。
プレトは思った。まさかあれは……ついさっき……私の胃から……出てきたものか? パンデアが目を見開いてから顔を歪めた。プレトの想像は当たっているようだ。
「おお……」フーイが座ったまま、驚いたような声を出す。ほんの少し愉快がっているようにも見えた。ルリスが顔を真っ赤にしながら言い放つ。
「あなたがどこの誰なのか分かったから、もういい! 早くいなくなってよ!」
「……」パンデアはその隣でじっと黙っていた。
「早くいなくなって! 今すぐに! 正中線に切れ込みを入れるよ!」
これは『皮を剥いでやる』という意味だ。最上級に怒っている。今のルリスなら、本当にやりかねなかった。
パンデアはフーイに視線を向けたまま、数歩あとずさる。踵を返して、吐瀉物を滴らせたまま、自身のレグルスに乗り込み、そのまま来た道を引き返していった。
昨日のうちに通信機を返してもらっていてよかったと、プレトは胸を撫で下ろした。そのとたんに、吐き気が戻ってきた。これ以上、水分を失いたくなくて、身体を丸めて耐え忍ぶ。
フーイがやっと立ち上がり、自身のレグルスから、重そうな折りたたみ式の給水タンクを持ってきた。立ち尽くしているルリスのそばに行き、その両手に水をかけている。友人はなにも言わずに、大人しく手を洗っていた。それが終わると、フーイは給水タンクの水をコップに入れ、「どぞー」と言い、テントの中に入れてきた。プレトは警戒したが、彼が自身の手に注いで飲んでいるのを見て、思い切って飲むことにした。おいしい。枯れた大地に恵みの雨が染み込んでいく感じだ。
「パンデアちゃん、あれだけ責めたのに、まじでなにも言わないからびっくりしちゃった。こうなる心当たりは?」
フーイが訊いてきた。再び地べたに腰を下ろしている。
「……なくは……ない」
心当たりは一つしかない。旅に出るきっかけになったあの件だ。ラピス溶液の秘密に気づいてしまったことだ。パンデアが製薬会社の人間だと知ったとき、所長の顔も思い浮かんでいた。
プレトがラピス溶液の秘密に気付いたことを知っているのは、所長だけのはずだ。プレトの口からは、ルリス以外の誰にも話していない。しかも、ルリスに話したのも、合流した次の日だった。所長がウラで何らかの手回しをしているのは明らかだ。プレトの存在は、彼らのお金儲けの妨げになる可能性がある。所長にとっても、製薬会社にとっても、プレトがいるだけでデメリットなのだ。
研究所も、製薬会社も、同じ資源省の管轄だ。共通の敵がいるのならば、手を組むのは容易だろう。
……脳みそが鉛に変化してしまったのかと疑いたくなった。ものすごく重たい。頭を上げていられず、水をなんとか飲み干して、うつ伏せになった。
無機物になりかけの脳で、再び考えはじめた。刃物で刺されたのなら、殺人事件で大騒ぎになるけど……毒虫に刺されたのなら、〈悲しい事故〉として片付けることができる。法務省ともズブズブらしいし……
事故か……もしかしたら、数日前の林道での事故も、所長の命令だったのかな……事前にレグルスのセンサーが壊されていたし、事故に見せかけて、プレトを消したかったのだろう。それに失敗したから、次の手に出たのかな……それに、まんまと嵌ってしまったというわけか。
パンデアが名前すら言わなかったのも納得できた。製薬会社の中で、彼がどういった立場なのかは分からないが、ずっと不機嫌で、悲しそうな表情も見せていた。ある意味で自暴自棄だったのかもしれない。
ふと、プレトの頭に『マッチポンプ』という単語が浮かんだ。いつかのニュース番組で目にしたことがある。たしか、意図的に問題を起こして、それを自ら解決することで利益を得るという意味だったような……
パンデアがストーカーを追い払っていたのは、これだったのか。敵を退治する様子を見せて、味方だと思わせようとしたのだ。こちらが油断したところで足元をすくおうとしたのだ。二回目にストーカーを追い払ったときなんか、相手のレグルスと隣接していたし、あのタイミングでドクププが入ったビンを受け取ったのではないだろうか。
……視界がグラグラする。めまいの遠心力で、思考が頭の隅に凝縮されていくようだ。その隙間に、憤怒や憎悪、絶望がなだれ込んできた。意識が吹き飛びそうだ。

夜が更けたが、体調がよくなる兆しはない。
処方された飲み薬は飲んでいるし、ルリスが手当てをしてくれているが、効果は全く感じられない。だからといって何もしないでいるのも怖いので、ダメ元で薬だけは飲むことにした。プレトとルリスは、細長いトンネル型のテント内で、頭を向かい合わせにしていた。
熱が上がってきた。大量の汗をかきつづけている。頭を少し動かしてルリスを見ると、うつ伏せになって、きつく目を閉じていた。両肘を床につけて上半身だけ持ち上げ、顔の前で手を組んでいる。
「どうしたの?」小声で話しかけた。小声しか出なかったから。
「お祈り」短い返事が聞こえた。
お祈り? お祈りって?
「もう、できることなくて……もう、プレトが治るように、神様にお願いするしか……」ルリスは、声を震わせながら言った。「お祈りなんてしたことないけど……でも、もう、これしかないよ……」
プレトはなんと言えばいいのか分からなかった。「うん」とだけ答えたが、ルリスに聞こえただろうか。
自分の呼吸が浅くなっていることに気がついた。身体を横たえているのに、腹式呼吸がうまくできない。もしかしたら、このままでは夜明けを迎えられないかもしない。重くて暗い闇が覆いかぶさって来るのを感じる。これが死の気配というものだろうか。
やり残したこと……たくさんある。後悔していることもたくさんある。悔しくて悔しくてたまらない。せめて、せめて、今できることを……プレトは蚊の鳴くような声で友人に頼んだ。
「ねえ、テントの開口部、開けてくれる?……星が見たい……」
ルリスはすぐに開けてくれた。薄い雲が夜を透かしながら、ゆっくりと流れていく。満天の星空が、プレトの人生など全く気にもとめない様子で、楽しげに輝いている。プレトは、なんとか右腕を動かす。ルリスの上半身を支えている右肘に触った。ルリスが床に突っ伏したのが分かった。プレトの震える右手を、両手で包み込んでいる。
「ごめんね……ごめんね……」
ルリスが鼻をすすりながら言った。
なぜルリスが謝るのだろう。なにも悪いことをしていないのに。ウチワモルフォに気づいたのも、クリームのキズを縫合したのも、レグルスを操縦してくれているのも、プレトの手当てをしてくれているのもルリスだ。それなのに、どうして謝るの。プレトの目から涙が出てきた。
左に顔を傾けているので、右目から出た涙が左目に入り、左目の涙と合わさって、筋を残しながら髪の中に消えていった。こんなに汗をかいて、身体はカラッカラなはずなのに、まだ涙だけは出るのか。人間の身体って、不思議だな。そこまで考えると、プレトの瞼がひとりでに閉じた。
最後に見たのは月だった。それは、プレトが一番好きな形で空に浮かんでいた。

(第30話につづく)

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