リバースパンダがノソノソとこちらに歩いてきた。地面の匂いをしきりに嗅いでいる。3人は様子を見ながら、徐々に走り出した。建物に入るか、レグルスに乗り込むのが最も安全なのだが、今は全ての建物がシャッターを閉めているので、レグルスを目指すしかない。
普通、クマに遭遇したときは、走って逃げるのはいけないことだと言われている。だが、リバースパンダが相手だと、走って逃げるか、水に飛び込むか、そのどちらかが正解だ。とはいえ、それはただの予備知識に過ぎない。実物を見るのは初めてだし、あの白黒の毛むくじゃらがどんなことをしてくるのか、全く予想がつかない。
キリンパンがよろけながら呟く。
「回ってきた……」
「アルコールが?」ルリスが訊いた。
「おう……」キリンパンは顔をしかめている。飲酒したことを後悔しているように見えた。
「まじか」プレトは眉をひそめた。
男がふらつきながら呟く。
「酔拳、使えるかどうか、あいつで試そうか」
「あいつの胃袋の中で?」プレトは嫌味を言ってやった。
「2人とも、もっと早く走れる?」ルリスがもどかしそうに言う。
「努力する」
「……酔っぱらいと同じ速度だなんて不名誉だ」プレトは唇を噛む。昔から走るのは得意ではない。
ルリスは少し先で、その場で駆け足をしながらプレトたちの追いつくのを待っている。プレトは友人に声をかけた。
「先に行ってて! 待たなくていいよ!」
ルリスは少し迷っていたようだが、口を開いた。
「急いでレグルス持ってくるから、なんとか逃げてね!」
そう言うやいなや、ルリスはしなやかな足取りで街の入り口まで駆けていった。
プレトは、後方のリバースパンダに目を向けた。こちらとはまだ距離があり、相変わらず地面のにおいを嗅いでいる。もしかすると、大人しい性質なのかもしれない。
プレトは走る速度を少し落とした。やはり苦手なものは苦手だ。すぐに脇腹が痛くなってしまう。 隣のキリンパンに目を向けると、彼も速度を落としていた。独り言が聞こえてくる。
「飲酒マラソンなんて、初めてだ」少し息が上がっているようだった。
「すき好んで、やること、じゃないしね……いい経験に、なった、じゃん」プレトもだいぶ息が上がっている。
「おまえ……余裕そうだな」キリンパンに睨まれた。
「余裕ではない。正直、怖い。気を、紛らわしてる、だけ……」
これは本音だ。リバースパンダは、黒い目の周りを白い毛で囲まれているため、瞳孔が異常に小さいように見える。あんな配色の生き物に追われるなんて、怖くてたまらない。夜だったら気絶していたかもしれない。
「キリンパン、こそ、余裕、そうじゃん」
「怖いやつに、追われるのは、慣れてっから」
「それ、どういう、意味」本当に言っている意味が分からない。そんなに酔っているのだろうか。
ぎゃおおおおお!!
リバースパンダが突然、空に向かって雄叫びを上げた。 驚いた拍子に、2人は大真面目に走り出す。リバースパンダが速度を上げてこちらに近付いてくる。まだ全力疾走ではなく、プレトたちと同じくらいの速度だ。大人しいという予想は、残念ながら外れてしまったようだ。
「あ、さすがに、やばい」プレトは青ざめた。
「もっと速く走れよ!」
「これが全力だよ!」酔っぱらいに言われたくない。
「路地に入るか?」
「袋小路だったら詰むじゃん!」プレトは男のアイディアを却下した。知らない街の袋小路に入ってしまったら、本当に身動きがとれなくなってしまう。凶暴とはいえ、実際にリバースパンダが人間を襲う事件など滅多に聞かない。だが、下手をしたら、本当に酔っぱらいと共にリバースパンダの胃袋に収まることになりかねない。そんなのは絶対にごめんだ。
プレトはなんとかならないかと、走りながら視線を動かす。近くの店の外壁に、備え付けられている消火器を見付けた。それをもぎ取り、後ろに思いきり投げつけてみる。
「……」
消火器はさほど飛ぶことなく、見当違いな場所に落下した。コントロールが悪すぎて話にならない。酔ったキリンパンに投げさせた方がよかったかもしれない。
「エースピッチャーだな」こんな状況なのに、嫌味を言われてしまった。やはりこいつは酔っている。
「黙って走れ!」
プレトは叫ぶと歯ぎしりをした。必死に走っても、こんなやつと並走だなんて悔しくてたまらない。
ルリスはまだ来ない。この調子では、レグルスに到着する前に、リバースパンダに追いつかれてしまいそうだ。なんとか、なんとかしなくては。
隣にいる男は、今は頼りになりそうにない。振り返ってみると、リバースパンダがさらに速度を上げて近付いてくるのが分かった。焦って前に向き直ると、ピンクのレグルスが少し離れたところに見えた。ルリスが大急ぎで来てくれているようだ。だが、このままではリバースパンダに追いつかれる方が早そうだ。しかし、走りながら再び視線を動かすと、チャンスが目の前に飛び込んできた。
「キリン、パンは、泳げる?!」息も切れ切れに叫んだ。
「人並み!」
すぐそばの公園に池があるのが分かった。慌ててそちらに向かう。
「飛び込むぞ!」
プレトはルリスのレグルスが近付いているのを確認すると、よろよろ走るキリンパンの腕を掴み、池に飛び込んだ。プレトは泳ぎだけは得意なのだ。
池は思いのほか浅かった。幅は、プレトとキリンパンが潜って少し余裕があるくらいだ。 飛び込むと、すぐに底に足がついた。身体を丸め、全身が水に浸かるようにした。キリンパンの腕を離す。全てがぼやけて見えるので、彼がどんな状態なのかもよく分からない。ぼんやりとだが、頭上のゆらめく水面に大きな影が映っているように見えた。おそらくリバースパンダだろう。
ここまで走ってきたから、息を止めていられるのは、長くても30秒くらいだろうか。早くも息が苦しくなってきた。まだリバースパンダの影が見えるので、水面に出て息継ぎすることはできない。やつが腕を振ったら、頭と胴体をすっぱりと切断されてしまいかねないからだ。
じっと水面を見ていると、視界を横切る細い影がいくつか確認できた。きっと、この池で飼われている魚だろう。リバースパンダは魚に気を取られて、この場を離れないのかもしれない。
判断を誤っただろうか。
プレトは、もう息がもたない。キリンパンは大丈夫だろうか。賭けに出て、息継ぎをしようか。もっと限界まで我慢すべきだろうか。苦しみながら迷っていると、クラクションの音が聞こえてきた。クラクションは途切れることなく鳴っている。リバースパンダの影が水面から離れた。大音量に驚いたのかもしれない。
そんなことより、もう息が限界だ。プレトは思いきって、水面から顔だけ出した。深呼吸を繰り返す。少し離れたところに、リバースパンダの後ろ姿が見えた。黒い尻と白い脚だった。
「プレト!」
後ろから聞こえた声に反応して振り返ると、ルリスがレグルスの窓から顔を出していた。やはりルリスが、リバースパンダをクラクションで追い払ってくれたようだ。プレトは再び水の中に潜り、キリンパンの腕を掴んで引き上げた。苦しそうに呼吸をしている。
「池があって良かったよ! よく逃げたね!」
「なんとか……ギリギリ……ありがと……」
プレトは、リバースパンダを追い払ってくれたことに礼を言った。ルリスのクラクションがなかったら、どうなっていたことだろう。 リバースパンダの後ろ姿がどんどん小さくなっていく。
「プレト、足遅いから、心配で心配で!」
「ふふふ……」足が遅いとはっきり言われ、つい笑いが漏れてしまった。
「酔いがさめた……」キリンパンがうつむいて言う。
「よかったじゃん」プレトはそう言いながら、改めて周りを確認した。リバースパンダの姿は見えない。森に帰ったのだろうか。
「夏でよかった……」呟きながら池から上がり、公園の芝生に腰をおろした。全身がずぶ濡れだったが、気温が高いので、むしろ心地がいい。キリンパンも、プレトと少し距離を空けて座った。黙り込んで、神妙な面持ちをしている。
どこからともなく、ガラガラと音が聞こえてきた。店がシャッターを開けはじめたらしい。住民たちは、リバースパンダの対応に慣れているように見えた。都会っ子のプレトには想像もできないことだが、ここでは時々、こういうことが起きるのだろうか。ふと、消火器をぶん投げたことを思い出した。あとでお店の人に謝りに行かなければ。
キリンパンがおもむろに話しはじめる。
「リバースパンダって、動物園とかにいるっけ?」
「あまりいないんじゃないかな。パンダのほうが人気だよね」ルリスが答えた。
「……なら、あれは野生か?」
「そうだと思うけど」
「そうか……だよな……偶然だよな……」
「偶然以外で、こんなこと起こるわけないでしょ」プレトが突っ込んだ。ウチワモルフォといい、リバースパンダといい、野生動物に襲われるのが必然だなんて思いたくない。
「2人とも、携帯電話は大丈夫?」ルリスに質問をされた。
「おう」
「防水だからね」
通りを人が歩きはじめた。日常が戻ってきたようだ。
「今日はこれで解散でいいか? オレ、自分のレグルスにいるから、なんかあったら通信機に連絡よこしてくれよ」キリンパンが立ち上がりながら言う。
有無を言わせぬ口調だったので、プレトとルリスはやむなく了承した。どっちにしろ、今日はこれ以上移動できない。キリンパンが駐車場の方へ歩きだしたとき、プレトは彼に声をかけた。なんとなく気になっていたことがあったからだ。
「リバースパンダを見たときさ、『聞いてない』とか言ってた?」
「……そんなこと言ったっけか? 『信じられない』の間違いじゃねえの?」
「……そっか」確かに、聞き間違いだったかもしれない。
「それじゃ、よいお年をー」
そう言うとキリンパンは、水滴を垂らしながら再び歩きはじめた。
「まだ酔ってるじゃん」プレトはキリンパンの背中に向かって呟く。本人には聞こえていないはずだ。
「プレト、着替えて宿をとりに行こうよ」
「うん」
急に、疲れがどっと出てきた。今日も色々あった。雲で実験をして、新しい出会いがあって、リバースパンダに追いかけられた。さすがに、もう休んでもいいだろう。
着替えをしようと、ピンクのレグルスに身体を向けた。操縦席に座ったルリスの横顔が見える。友人は唇を引き結び、顎を引いて前方を見ていた。その視線をたどると、キリンパンの背中があった。彼を睨みつけているようだ。
「どうしたの?」
「ん? ううん、なんでもないよ」
こちらを向いたルリスは、いつも通りにニコニコしている。ルリスの背後で、積乱雲が大きく膨らんでいるのが見えた。
(第22話につづく)
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