「プレト…」
ルリスの声に、プレトはハッとした。
横に目をやると、ルリスが立ちすくんでいる。クリームも様子を伺うように、プレトの顔を覗き込んでいた。
「何もできなくてごめん」
ルリスが蚊の鳴くような声で言った。
「……ううん。なんとか収まってよかった」
プレトは冷静さを取り戻し、タオルを掴むと、レグルスの座席の足元に置いた。
「とんだ災難だったよ」
「うん……」ルリスの声に覇気がない。心を抉られた後に、荒んだプレトを目の前にしたのだから当然だ。なんとか取り繕わなくては。
「はあー、疲れたー」プレトは、わざと特大のため息をつく。「私の背中に、こなきじじい乗ってない? 身体が重いよ」
「乗ってないよ」ルリスが答えた。「ここで妖怪に襲われたら、脳が情報を処理しきれないよ」
「そりゃそうだ」
ルリスの口角が、ほんの少し上がっているのを確認し、プレトはホッとした。
すでに陽が傾き始めている。
移動する気力もないので、今日はここで野営をすることにした。先ずはテントを張る。それぞれ1人用のトンネル型テントを持参していた。
「同じブランドを選んだよ」ルリスがニヤッとした。
出発前日にプレトの装備を確認しただけで、ブランドまで記憶したようだ。あの時点で、ルリスはついてくる気満々だったのだろう。
テントの端と端を連結させ、細長いトンネルにした。出入りするときは側面の開口部を使う仕組みだ。
プレトもルリスも細身なので、横に並んでもなんとか寝られそうだったが、さすがに寝返りしたときに辛そうだから、頭を向かい合わせにして寝た方がいいかも知れない。
プレトの難燃性小型タープテントも、すぐそばに張っておいた。
テントの設営が終わると、タープの中で焚き火を起こした。
「わたしの装備、プレトの装備の下位互換だからさ、こっちの薪から使おうよ」
ルリスが提案してくれたので、お言葉に甘えることにした。2人とも両手にグローブをはめる。 焚き火シートを敷き、その上に焚き火台をセットした。小型で扱いやすく、調理にも対応しているものだ。
ルリスが持参した薪と着火剤を、焚き火台の上に並べ、口の長いライターで火をつけた。火ばさみで薪の位置を調整しながら、火吹き棒で火力を強める。
ぱちぱちと音をたてながら、赤い火の粉が上空に舞っていく。クリームは興味津々と焚き火を眺めている。動物は火を怖がるものだと思っていたが、クリームは好奇心の方が強いようだ。
「やけどしちゃうから、見るだけだよ」
プレトが声をかけると、クリームが「きゅきゅっ」と返事をした。
「今のうちに下着だけでも洗濯しておいた方がいいかな」
ルリスが言った。
「確かにそうだね。日が暮れる前にやっちゃおう」
昨日はウチワモルフォから逃れるため、レグルスに缶詰め状態だった。だから着替えもしていない。
周りにいるのはクリームだけなので、2人とも気にせずタープの中で服を脱ぎはじめる。焚き火の温度を肌に直接感じるのは心地がいい。2人とも着ていたジャージをレグルスに置き、持参したスエットに着替えた。プレトはグレーで、ルリスはブラウンだ。
「パジャマはスエットが楽だよね」嬉しそうに言うルリスの顔を、焚き火がほんのり照らしている。
小鍋で湯を沸かし、タオルを浸した。固く絞って、簡単に身体を拭く。頭はドライシャンプーで洗った。プレトのドライシャンプーは石鹸の香りで、ルリスのはバラの香りだった。
プレトの装備の中から洗濯袋を取り出し、2人分の下着と靴下とタオル、ルリスが持参した水と洗剤を入れ、袋ごとわしゃわしゃ揉む。クリームも、のしかかる形で手伝ってくれた。
すすぎは1度だけにして、バルブから水を排出し、脱水する。これだけで洗濯になるのだから、洗濯袋はとても便利だ。しかも、エアバルブもついているので、圧縮袋としても使える。手配してくれたチユリさんに感謝だ。
「下着もタープの外に干していい?」
いいと言われるのは分かっていたが、一応、ルリスに確認した。
「いいよ。下着泥棒はいなさそうだしね」ルリスから予想通りの返事が来た。
「悪質な警官はいたけどね」プレトが冗談交じりに言う。
「いやもう、ほんとそれー!」ルリスがはしゃいだ顔になる。
ランドリーロープをレグルスから取り出し、タープのポールに固定した。反対側をプレトのレグルスの窓に挟む。ロープの余った部分は、レグルスの中に適当に垂らしておいた。
洗濯物をロープ付属の洗濯バサミで干していると、クリームがじゃれついてきた。揺れる洗濯物が面白いらしい。
「クリーム、遊ぶのはいいけど、下着を頭に乗せるのはやめて……」
「きゅっきゃきゃ」
通じなかったようだ。
洗濯を終え、プレトがルリスに訊いた。
「出発前日に渡したスプレーボトルって、持ってきてるかな」
「あるよ」ルリスが答える。
「今のうちに身体に吹きかけておいて。虫除けになるから」
「了解でーす」
プレトとルリスは、バックパックからスプレーボトルを取り出し、溶液を身体に吹きかけた。服の消臭効果もあるため、全身くまなくかける。
途中ルリスが、プレトにスプレーしようと追いかけ回したため、辺りがラベンダーの香りに包まれた。クリームも追いかけっこに参加しようとしたが、傷が開くといけないので、人間2人があわてて止める。
薄明の空のもと、バラと石鹸とラベンダーの香りが空気の中で混じり合っていた。
「やば、ごはんが冷めちゃう」
プレトとクリームが洗濯をしている間に、ルリスが夕飯の用意をしてくれた。パックのライスと、レトルトの液状カレールーだ。既に紙皿に盛ってある。
クリームは、自分用のおにぎりを見付けるなり、すぐにがっつきはじめた。「きゃっきゃっ」と嬉しそうに頬張る。
「ありがとう、いただきます」
折り畳んだレジャーシートに座り、プレトはカレーライスを口に運んだ。プラスチックのスプーンがカチっと歯に当たり、スパイスの香りが口いっぱいに広がる。
「おいしーい」と、プレトは言った。素直な感想だった。
「よかった。スパイスをちょっと追加したの」
ルリスは調味料を少し多めに持ってきたようだ。きっと、食への興味が薄いプレトでも楽しめるように、気を配ってくれたのだろう。だからこのカレーも、優しい味がするのかも知れない。
「カレーがおいしいのは、アウトドア効果もあると思うけどね」ルリスがはにかんで言った。
食事を終える頃には、すっかり夜が更けていた。幾つもの星々が楽しそうに瞬いている。
プレトとルリスはレジャーシートの上に、足を投げ出して座った。クリームは気ままに浮いている。
プレトはおもむろに口を開いた。
「クリームはどこから来たんだろう」
「え?」ルリスが不思議そうな顔をした。「この辺りの子じゃないの?」
プレトがうつむきがちに答えた。
「うーん。野生だと思い込んでたけど、もしかしたら迷子かもしれないと思ってさ」
「迷子?」ルリスは不思議そうだ。
「カスタードルフィンはもともとフレンドリーだけど、クリームはその中でも、かなり人懐っこいなと思って。焚き火とか、私たちの装備品も怖がらないし」
「あー、確かに……」
「飼育されているカスタードルフィンは、タグがついているのが普通でしょ? だから、タグがないクリームは野生だと思ってたんだ」
ルリスは黙ったまま、プレトの話にじっと耳を傾けている。プレトは続ける。
「でも、クリームは多分、だいぶ幼いから、タグをつけられる前だったのかもしれない」
ルリスは真剣な顔をしている。 明るい茶色の瞳に焚き火が映っているのを見ながら、プレトはさらに続けた。
「何かの拍子に、牧場とかから出てきてしまったのかもと思って。あの傷も、広い外を張り切って飛んでいるうちに、木の枝か何かに引っかけたのかもしれない」
「なるほど……」ルリスはうんうんと頷く。プレトの考えに納得してくれたようだ。
「まあ、あくまで全部予想だけど。野生の群れからはぐれただけかもしれないし」
プレトはそう言って伸びをした。空がいつもより高く見える。
ルリスが口を開いた。
「クリームちゃんがどこの子か、確かめる方法はあるのかな」
「うーん」と、プレトは少し考えてから言った。 「次の街で、動物病院に連れていこうか。カスタードルフィンなら、大抵の動物病院で診てもらえるし」
「病院……」
「ケガの具合も診てもらいたいし、もし個体識別用のチップが埋まっていたら、出身がどこか分かるかもしれない」
「そっか!」ルリスの表情が明るくなった。
「それでクリームちゃんのお家が分かる!」
「そういうこと」
そこで話が途切れると、ルリスが空中に目をやった。視線の先ではクリームがのんびりと宙を飛んでいる。
「じゃあ、クリームちゃんとはもうお別れなのかな」ルリスがポソッと呟いた。
プレトも空中のクリームに目をやる。淡い黄色をしたクリームの輪郭がぼんやりとして見えた。クリームの後ろに夜空が広がる。
砂金のように光り輝く数えきれない星々が、焚き火に炙られて溶けているように見えた。
(第11話につづく)
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