暗い気持ちに支配されているうちに、定時になった。プレトは重い足取りで帰宅の準備をする。リュックを背負ったところで、チユリさんに話しかけられた。
「これ、レインキャニオンの資料よ。渡しておくね」
プレトは受けとる。資料は使い古されたものではなく、新しく印刷されたものだった。わざわざプレトのために用意してくれたようだった。
「ありがとうございます」
プレトは目を合わせてお礼を言った。
「装備については任せておいてね。管理しているのは私だから、とっておきの重装備にしてあげる」
チユリさんの声からは、強い意思を感じられた。 プレトは彼女の身を案じた。
「でも、私にだけ重装備を与えたら、所長に叱られませんか」
「大丈夫。何も言わずに用意すればいいだけよ。誰にもバレはしないわ。あなたが心配することはないの」
チユリさんが不敵な笑みを浮かべる。なんて頼もしいんだろう。
プレトは自宅兼研究室に帰ると、直ちにソファーに座り、レインキャニオンの資料をじっくりと見てみた。
すると間もなく、「ピンポーン」と玄関のベルが鳴る。
インターホンの画面にルリスが映っている。 応答せずに玄関に行ってドアを開けると、ルリスがにこにこしながら入ってきた。
「プレトもドリンク飲むよね」
そう言って、ルリスはキッチンへ向かっていった。改めてプレトはソファーに座り込む。今度は左側に身を寄せた。 ルリスがドリンクと氷が入ったプラスチックコップを、両手に1つずつ持ってきた。そろそろと片方を差し出しながら言う。
「今日もお疲れさま」
「ありがとう」
プレトは、なみなみに注がれたコップをゆっくり受けとる。ルリスも自分のを啜りながら、ソファーの右側に座る。
「職場から命令されて、レインキャニオンに行くことになった」
プレトが手に垂れたドリンクを拭きながら言った。
「この家は空けるから好きにしていいぞ」
ルリスは呆気にとられた顔をした。
「え、急になに? え? そういうのって専門の人が行くんじゃないの?」
「私も研究所の人間だからね」
冷静に答えるプレトに、ルリスは被せて質問してくる。
「採取チームの人たちは?」
「今回は研究チームに採取させたいみたい」
「何人で行くの?」
「1人」
プレトが答えると、 ルリスは目を大きく見開き、まばたきもせずに言った。
「1人? 華奢な女性がたった1人で虹の採取に?」
「採取する虹の量はそんなに多くはないから、1人で十分ってことなんだと思う」
「そうじゃなくて! 危ないでしょ! 1人で行って帰ってこれるの?」
「帰ってこれるかどうかは分からない。だから、この家は好きにしていいと言ったんだ」
ルリスは、信じられないという顔をしている。それはそうだろう。プレト自身、信じられないのだから。
ルリスが質問する。
「枯渇問題は、マスコミが騒いでるだけなんじゃないの」
「いや、やっぱり大変みたい。だからレインキャニオンに行って虹を採取しないといけないんだ。同居の話はなし。ごめん」
ラピス溶液のことはなんとなく話してはいけない気がして、所長が言っていた理由だけを伝えた。言葉を続ける。
「同居はできないけど、この家は好きに使っていいよ」
「そんな……」うつむくルリス。「今日、職場で命令されたの?」
「昨日、届いた封筒に、命令書が入ってたんだ」
プレトが答えると、ルリスは固まってしまった。自分が渡した封筒が、まさか友人を危険地帯へいざなうものだったと知って、やはりショックだったのだろう。
「どうしてプレトが選ばれたの?」
ルリスが弱々しく訊いてくる。プレトは冷静に答えた。
「職場は私がいなくなっても困らないからね。健康で忠実で1人身の下っ端は、こういう役にちょうどいいんだろうね。私が帰って来なくても、人件費が減る分、損はしないだろうし」
ルリスは持っていたコップを力なくローテーブルに置く。結露が、雑に広げられた資料に滲んだ。
「わたしも行けるかな」
ルリスはボソッと言った。
プレトは聞こえないふりをしたが、ルリスはもう一度言った。
「わたしも虹の採取に行きたい」
「そう言うと思ったけど、あちらは私をご指名なの」
ルリスは納得がいかないようだ。
「1人じゃないと、ダメなの?」
「あまり予算もないだろうしね」
プレトはそっけなく答える。
「ほんとうに行くの」
「まあね」
「なんで」
「なんとなく」
ルリスはヒートアップしてきた。
「なんとなくじゃない!」
「怒らなくても」
「怒るよ! どうしようもない職場にも! どうしようもない命令に従うプレトにも!」
ルリスに視線を合わせて言った。
「私だって乗り気じゃないよ」
「じゃあ、どうして?」
ルリスが身を乗り出してくる。プレトは本心を隠していることを悟られぬよう、敢えてあっさりと答えた。
「みんなを助けたいから」
ルリスはポカンと口を開けた。
「あなたって、そんなこと言う人だったっけ」
プレトは少し笑う。
「普段は絶対言わないよね。でも、パラライトアルミニウムがなくなって、みんながレグルスを使えなくなるなんて、気の毒だと思ったんだ」
ルリスは珍しい生き物を見るような目でプレトを見ながら言った。
「プレト。なんか今日、変だよ」
「そうかな」
プレトは適当に答えた。ルリスはむすっとして言う。
「ちゃんと話し合いたいんだけど」
「話し合うことなんて何もないよ」
そっけないプレトの態度に、ルリスは我慢ならなくなってきたようだ。
「ちゃんと聞いてよ! あなたを1人で行かせたら、この先ずっと後悔しつづけることになりそう」
穏やかなルリスがここまで食い下がるのを、プレトは初めて見た。ルリスは一度、深呼吸してから言った。
「……それにね、わたし、もう、家にいられないの。居場所がないの。仕事をクビになってからずっと……」
小さな声で続ける。
「だから、プレトと一緒にいたいよ」
ルリスは半年前まで、調理担当として飲食店に勤めていた。真面目に出勤していたし、人間関係も良好だったが、貧しい子どもに無銭飲食させていたことがバレて、クビになってしまったのだ。
ルリスがクビになったと聞いたとき、プレトはとても驚いたが、理由を知って納得した。優しいルリスらしいと思って、むしろ誇らしくなったぐらいだ。
だが、世間はそんなことは知らないので、ルリスに冷たく当たる。
職を失い、特定のアルバイトも見付けられなかったため、ルリスは今では単発の日雇い労働をしている。だが、その収入だけでは1人暮らしはできず、それまで住んでいたアパートを引き払って、実家に戻ったのだ。
ルリスの両親は、一緒に住むことは許容したものの、ルリスを穀潰しだとしばしば罵った。彼らは、「職業に貴賤あり」を固く信じている。自分の娘が日雇い労働者なのが、恥ずかしくてたまらないのだろう。
こういう言い方をすると、ルリスの両親が冷たい人間のように聞こえるかもしれない。だが、この国の大部分の人間はこの思考なのだ。ルリスがプレトの家にしょっちゅう訪ねてくるのは、これも理由の一つだった。
プレトは口を開いた。
「だから、この家は好きにして……」
「ここに住みたいんじゃなくて、プレトと一緒にいたいの。だから、一緒に行きたいの」 ルリスはプレトの声を遮るように言う。 「もう私にはどこにも居場所がないんだ。それにわたし、レグルスの操縦は得意だからさ、絶対に帰ってこれるよ。プレトのこと、ちゃんとここに帰すよ。だから、連れて行って」
切実な思いが伝わってくる。ルリスは本気なのだ。 だが、ルリスの意見を聞き入れることはできない。レインキャニオンは、ルリスの両親より危険だからだ。
「お願いだから」すがりつくルリスに、プレトはわざと冷たく言い放つ。
「毎日のんきに遊びに来るような人と冒険したら、危ない目に遭いそうだよ」
ルリスは明らかに傷付いていた。
そのまま黙ってプレトを見詰めていたが、やがて「そうだね」と呟いて立ち上がった。 持ってきたバッグのところへ行き、持ち手を握る。
「帰るね」と言って玄関に向かていった。 プレトも思わず立ち上がるが、引き止めるつもりはなかった。 重い空気の中で、ムイムイが軽やかに浮いている。 ルリスがフラットシューズに足を入れて言った。
「またね」
ルリスは振り向くことなく、外に出ていった。少し間を置いて、ドアがガチャンと閉まる。
結局、プレトはルリスに本心を言えなかった。 言い始めたら止まらなくなりそうだったから。
「みんなを助けたいから」というのは嘘だ。
本当はレインキャニオンなんて絶対に行きたくない。しかも、1人で行くなんて怖くてたまらない。
命令書が届いてから食欲もなくなり、 不安と心配に支配されている。 でも、今日もルリスが来てくれて、そばかすが散った笑顔を見たら、不思議と気持ちが落ち着いてきた。もしルリスと一緒に行けたなら、きっとレインキャニオンまでの道のりも楽しいだろう。だが、どんな危険が待っているか分からない冒険に、唯一の友人を誘うことはできなかった。
プレトがローテーブルに戻ると、散らかった資料がからかうように見上げてくる。コップ2つを雑に持ち、キッチンのシンクに投げるように入れた。ベシャッと音を立て、中のドリンクが辺りに飛び散った。
友人を守るために、本人にわざと嫌われるなんてバカだ。自分の気持ちを圧し殺した結果、それ以上のものを失ってしまった。
やはり胸の内をすべて話してしまえばよかった。一緒に来てほしいと泣きつけばよかった。もう会えないかもしれないのに、最後に冷たい態度を取った自分が憎らしい。後悔したって仕方がないのに、暗い思考に抗えない。
プレトは何もかも、どうにでもなれと思った。
(第5話につづく)
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