前回の記事で、古代エジプトと日本が悪魔崇拝で繋がっていることを書きました。
その中で「銅鐸」について書きましたが、前回の記事でも紹介した大羽弘道氏の学説はトンデモ扱いされています。
大きな理由は二つあるようですが、その一つは『年代』でした。
Wikipediaによると、「銅鐸」が製造された時期は、紀元前2世紀から2世紀の約400年間だそうです。
「銅鐸」が弥生時代に製造されたものだとすると、蘇我入鹿が生存していた飛鳥時代とはおよそ500年もの年代の開きがあることになり、「銅鐸」の絵が蘇我入鹿を表しているという考えは根底から覆されます。
「銅鐸」の年代を特定する決め手となったのは、「銅鐸」の表面に描かれた波型の紋様だそうです。
この紋様が、弥生時代の土器に影響を受けたというのです。
弥生土器の横型流水紋は、以下のようなものです。
対して、「銅鐸」の横型流水紋は以下のようなものです。
確かに似ていると言えば似ていますが、弥生土器を見た後世の人が「銅鐸」の表面に紋様を刻んだ可能性もあり、同時期に製造されたと断言することはできません。
さらに、リンク先には古い段階と新しい段階の「銅鐸」があることが記されていました。
新しい段階の「銅鐸」にはトンボやシカなどの絵画が描かれているそうです。
前回の記事で取り上げた銅鐸群です。
『新しい』ということは、弥生時代より後の可能性もあるわけですから、蘇我入鹿が命じて作らせたことも考えられます。
さらに、「銅鐸」に描かれる絵柄には制限があったようです。
「銅鐸」に描かれた絵の中でも圧倒的に多い絵柄は『シカ(鹿)』だそうで、全体の5割を占めるそうです。
しかも、そのシカが人から弓矢で狙われている図柄が圧倒的に多いようです。
つまり、『鹿を射る→射る鹿→入鹿(蘇我入鹿)』となります。
これらのことから考えると、やはり銅鐸に描かれた絵は蘇我入鹿に関係する可能性が高いです。
Wikipediaによると、蘇我氏の祖先は武内宿禰だとされています。
しかし蘇我氏は、大陸からの渡来人だという説があります。
蘇我氏の本拠地、明日香村から出土した土器を調べると、朝鮮半島全羅道から出土する土器とそっくりだということです。
「銅鐸」の絵が伝えていたのは、『(渡来人の)蘇我入鹿が高御座についた、すなわち(日本の)天皇に即位した』ということでした。
この学説が認められると、『古事記』や『日本書紀』に記されていた『天皇は万世一系』という大前提が覆されることになります。
これこそが、大羽弘道氏の学説がトンデモ扱いされているもう一つの理由なのです。
そうなると、既得権益に塗れた人たちの権威が失墜する恐れがあるなど、いろいろと不都合なことがあるのでしょう。
そのため、彼らはひたすら無視を決め込んでいるのだと思います。
「続日本記」や「扶桑略記」によると、「古事記」や「日本書紀」が書かれた時代にも「銅鐸」が出土したことがわかっていますが、記紀には「銅鐸」についての記述が全くありません。
また、「銅鐸」は入れ子状態で埋められていたり、破壊された状態で発見されたりしているようです。
私は知りませんでしたが、中には『×』印が刻まれた銅鐸もあるそうです。
入れ子状態で埋められる、故意に破壊される、×印を刻まれる…この状況はどう見ても、銅鐸が『ゴミ』として捨てられたとしか考えられません。
さらに、故意に破壊したということから『憎しみ』の感情のようなものも伝わってきます。
蘇我入鹿が天皇に即位したことを苦々しく感じていた人たちが、相当数いたのでしょう。
こう考えると、学校の授業で学んだ『大化の改新(乙巳の変)』とは、渡来人の蘇我氏から権力を奪取するためのクーデターだったのかも知れません。
興味深いのは、大化の改新により、国号が『日本』と定められたことです。
『日本』という名称については、過去の記事でも紹介しました。
○【じげもんの常識をブッ壊せ!!】Vol.15 – かつての日本には二つの国が存在していた!! 群馬人脈のルーツは古代東日本の「日本王国」
国号を日本としたのは、東日本にあった『日本王国』から来ているのかも知れません。
興味深いのは、蘇我入鹿暗殺のメンバーに、同じ蘇我氏の石川麻呂と阿倍内麻呂が加わっていたことです。
利害関係が一致すれば、たとえ仲間や身内であっても裏切るという、現代の中国共産党に通じる気性がそのまま表れています。
さて、大化の改新の中心人物の一人、中臣鎌足は『豊璋』という渡来人で、ユダヤ人の末裔だったということがRAPT理論で明らかになっています。
○【麻生太郎と安倍晋三はユダヤの末裔!!】水面下で進むユダヤ人日本移住計画
豊璋は百済の王様でした。
蘇我入鹿の本拠地、明日香村から出土した土器を調べると、朝鮮半島全羅道から出土する土器とそっくりだということは前に述べました。
そこで、全羅道についても調べてみました。
驚きました。
豊璋(中臣鎌足)と蘇我入鹿の出身地はほぼ同じだったのです。
豊璋がユダヤ人だとすると、蘇我入鹿もユダヤ人の末裔だったのでしょうか。
もしそうだとすると、大化の改新はイルミナティ同士の権力争いという側面もあったのかも知れません。
このあたりはさらに調べる必要がありそうです。
さらに、豊璋も蘇我入鹿も百済の出身のようです。
百済は、隋や唐から冊封(さくほう)を受けています。
つまり、属国だったわけです。
百済出身の豊璋や蘇我入鹿が日本を支配していたということは、この日本は1400年ぐらい前から中国の支配下にあったということです。
考えてみると、平城京も平安京も、唐の長安をモデルにして作られたということですので、中国の影響が大きいのはすぐに分かります。
この話はまだ続きます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
皆様に神様の祝福がありますように。
いつも記事を楽しみに拝見しております。弥生時代などの歴史に興味があるのですが、銅鐸の絵文字説、古代より日本は中国人に支配されていたとのでは、との見解に賛成です。また次回も楽しみにしております!