【じげもんの常識をブッ壊せ!!】Vol.15 – かつての日本には二つの国が存在していた!! 群馬人脈のルーツは古代東日本の「日本王国」

【じげもんの常識をブッ壊せ!!】Vol.15 – かつての日本には二つの国が存在していた!! 群馬人脈のルーツは古代東日本の「日本王国」

私が住んでいる長崎は、日本の西の外れにありますが、西日本と東日本には色々な面で違いがあることが知られています。

例えば餅の形。

西日本は丸餅ですが、東日本は角餅です。

◯東の角餅、西の丸餅の違いとは?それぞれの由来も解説

また、灯油などを入れるポリタンクが、西日本は青色が主流ですが、東日本は赤色が主流です。

◯灯油用ポリタンクは「東日本→赤」「西日本→青」 では境界線は?

うどんの出汁も、西日本はアッサリとした透明なつゆですが、東日本はコクのある濃いつゆです。

◯東西うどんの味は、あの戦場を境界にわかれていた!

そういえば、電源周波数も違いました。

西日本は60Hzですが、東日本は50Hzです。

◯電源周波数は東日本と西日本で違う?引越し前に家電製品を確認!

まるで、一つの国土の中に異なる二つの国の文化が存在するみたいです。

今から1500年〜1300年前の日本には、実際に西日本と東日本で別の国が存在していました。

西日本の国は奈良県あたりを中心とする大和国ですが、東日本には関東の方に大きな国があったそうです。

中国の古書『旧唐書』には、東日本にあった国のことが書かれていました。

◯旧唐書-Wikipedia

驚いたことに、その国は『日の昇る方角にある』から『日本』と呼ばれていて、私たちが耳にしたことのある『倭国』とは別の国だったそうです。

以下、ここでは旧唐書に書かれていた国を『関東日本王国』と呼ぶことにしますが、関東日本王国の特色として、騎馬による戦闘を得意としていたようです。

しかし、魏志倭人伝によると、その頃の日本には馬がいなかったそうです。

つまりこの馬たちは、外国から持ち込まれたのです。

では、日本に馬を持ち込んだ国はどこでしょうか。

下記リンク先の番組によると、関東日本王国の王の墓は『高麗尺(こまじゃく)』の寸法を基準にして造られていたそうです。

つまり、この王国の人々は、当時朝鮮半島にあった『高句麗』から渡来してきたようです。

高句麗について調べてみると、『高句麗』とは『高』氏が作った『句麗(=城)』という意味だそうです。

○高句麗-Wikipedia

『高』氏については、下記リンク先にも記事がありました。

○開封のユダヤ人-Wikipedia

また、こちらにも記事がありました。

○仮説、王になる血流と王を選ぶ血流?

仮に関東日本王国の王が高句麗から来たとすれば、彼らのルーツはユダヤ人であり、王の血流に属することになります。

現に、埼玉県の生出塚窯跡から発掘された埴輪を見ると、鼻が大きく、目が垂れています。

また、千葉県では、帽子を被った埴輪が出土していますが、その様子はどう見てもユダヤ人です。

○芝山古墳群(殿塚・姫塚)出土埴輪

○イスラエルでユダヤ人が大暴れ

また、日本の方言を分析すると、関東地方と近畿地方では別の文化圏が存在したようです。

○松本清張 『砂の器』 ~出雲弁と東北弁 その類似性の謎を読み解く~ 斎藤成也『日本人の源流』

さらに、遺伝子を解析すると、西日本の人(下の図では出雲ヤマト人と呼んでいます)と東日本の人(関東ヤマト人・同)では遺伝子的に少し離れています。

つまり、同じ国に住んでいますが、関東と関西では遺伝学的にも相違が見られるのです。

関東日本王国には、強大な権力を持つ王がいたようです。

王の副葬品として、黄金の冠や黄金の靴、黄金のベルトが古墳から発掘されています。

さらに、埼玉県北部にある稲荷山古墳からは、鉄剣と勾玉、それに銅鏡が発見されています。

○稲荷山古墳出土鉄剣-Wikipedia

Wikipediaでは、鉄剣に刻まれた『獲加多支鹵大王』を『雄略天皇』としていますが、鉄剣には『獲加多支鹵大王』は『斯鬼(シキ)宮』に住んでいると書かれてあります。

しかし、『雄略天皇』の宮は『泊瀬朝倉宮』であり、『斯鬼宮』ではありません。

○原日本紀の復元018 稲荷山古墳出土鉄剣の471年説・雄略天皇説を否定してみる〈2〉

おそらく、『雄略天皇』と名前が似ている『獲加多支鹵大王』が、関東日本王国を統治していたのでしょう。

また、同じ稲荷山古墳からは、勾玉と銅鏡も出土しており、いずれも国宝に指定されています。

勾玉に剣に銅鏡…そうです、『三種の神器』です。

『三種の神器』とは、天皇が代々引き継いできたものでした。

○三種の神器-Wikipedia

それが発見されているということは、天皇に匹敵する権力を持った王がいたということでしょうか。

実は、この『関東日本王国』の中心地は現在の群馬県にありました。

○三ツ寺遺跡-Wikipedia

そうです。

『関東日本王国』は、もしかすると『群馬人脈』のルーツかも知れないのです。

次回から『群馬人脈』について詳しく調べたいと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

皆様に神様のお守りと救いがありますように。

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