プレトは、白い愛車に装備を詰め込んでいく。沢山あるから、1人乗り用のレグルスはスペース的にギリギリだった。シートの背もたれを倒す余裕もなさそうだ。しかし、チユリさんが必死でかき集めてくれたものなので、すべて持って行きたかった。
服装は上下セットのジャージにした。全体がブラックで、ゴールドのラインが入っている。スポーツブランドのもので、タンスの肥やしになっていたところを引っ張り出してきたものだ。靴は白のスニーカー。寝癖が直らなかったので、黒のキャップも被ることにした。衣類は必要最低限のものを持っていくつもりだったが、立ち寄った街で買い足すことも可能だと思い、動きやすいものだけを適当にピックアップしておいた。
荷物を積み終わると、プレトは振り返り、自宅兼研究室を見上げた。大家さんには、出張中に友だちが住むから、この家はそのまま使わせてくれと伝えてある。このオンボロ賃貸の持ち主はとても緩い人物なので、二つ返事で了承してくれた。
ここはプレトにとっても、ルリスにとっても居心地のいい場所だった。思い出が詰まっているこの家に、再び住める日が来るのだろうかと、少し感傷的な気分になる。しかし、プレトは自分に言い聞かせた。
……これからはルリスが使ってくれるのだから、それでいいじゃないか。
……ルリスが安全に暮らせるのなら、それでいいじゃないか。
プレトは、荷物でいっぱいになったレグルスに乗り込む。 帰れない可能性もあるのに、プレトの心は予想に反してやけに落ち着いていた。 昨日、ルリスに会えたのが大きかったかもしれない。
ルリスは帰り際に、プレトの右手を自分の両手できつく握ってくれた。 プレトも自分の左手をルリスの右手に添えて、きつく握りしめた。 ルリスの手はとても温かかった。逆にルリスにとって、プレトの手は冷たかったかも知れない。
「スプレー、ありがとう」と言ったルリスの小さな声が、今でも頭の中で響いている。 結局、プレトの本心も、この旅が追放を意味しているということも、ルリスには伝えられなかった。傷付けたことを謝ることもできなかった。
だが、なんとか出発前に仲直りができてよかった。
スプレーを渡せてよかった。
変なジュースを買っておいてよかった。
しかしプレトは、思い出の反芻をそこで無理やり止める。
友人との仲が丸くおさまったのだ。喧嘩別れにならずに済んだのだ。それだけでもう充分だ。
そろそろ出発しなければ。
「私も、ほうれん草ババロアの方が好きかもしれない」
プレトはひとり呟くと、レグルスのエンジンボタンを押した。
レグルスがその場に浮遊し、ボディを支えていた脚が収納される。プレトはU字のハンドルを握りしめ、ゆっくりとアクセルペダルを踏む。レグルスが滑るように動きはじめ、道路に出ていった。
今まで帰る場所になってくれたボロ屋に、心の中で「バイバイ」と別れの挨拶をした。
出発して数時間が経ち、いくつかの小さな街を通りすぎた。昼食は、持ってきたサンドイッチと、ペットボトルのお茶で簡単に済ませた。
この辺りの街並みはとても可愛らしい。民家の外壁がパステルカラーに塗られていて、三角屋根に煙突がついている。パステルブルーやパステルグリーンに囲まれたこの道路は、ドライブするだけでも楽しい。きっと行楽シーズンには、人気の観光スポットなのだろう。長い直線の一本道だから、レグルスを操縦するのも楽だ。
平日の夕方前だったから、周りにはレグルスも人通りもほとんどない。静かな街の中を、プレトは鼻歌を歌いながらゆっくり移動していく。
「るーる、るーるる、るるるるる、るるる」
昔観たアニメーション映画の中で、演出としてラジオから流れた曲を口ずさむ。その曲は、主人公の旅立ちを盛り上げる役目を果たしていた。物語の内容には全く関係のない歌詞なのに、不思議と雰囲気にマッチしていたから、記憶に強く残っていた。
プレトは既に女の子と呼べる年齢をとうに通り越していたが、未知の旅に出た自分と、映画の主人公の女の子とをついつい重ねてしまう。もっとも、その主人公が旅立つ理由は、一人前になるためという前向きな理由で、プレトは実質的に追放されているわけだから、その心境には雲泥の差がある。
「るるーるる、るーるーるー、るーるーるーる」
するとそのとき、ずっと後ろから1台のレグルスが後をついてきているのに気付いた。一本道だし、他に一台もレグルスが走行していなかったから、そのレグルスはやけに目立った。
「るるーるるー、るーるーるるーるー」
そのレグルスは、かなりのスピードを出していて、着々とプレトとの距離を縮めている。
「るーるーるーるーるるーるる、るるるるるるー」
余りのスピードなので、今にもプレトに突っ込んで来そうな勢いだ。レグルスには事故防止機能がついてはいるが、怖い思いはしたくない。
鼻歌を止め、訝しく思いつつバックミラーを覗いてみると、近付いてきたピンクのボディが、ポーンと垂直に数メートル上に跳ねあがった。
しかし、直ちにそこから下降し、地面すれすれで浮遊しはじめる。跳ねている間に開いた距離を、通常走行で詰めてくると、また数メートル上に跳ねあがる。それを繰り返している。
ピンクの2人乗り用レグルスだ。しかもあの無茶な操縦。
……まさか、ルリス?
プレトは目に入った公園の駐車スペースに入り、ブレーキペダルを踏んだ。ホワイトのレグルスが停車する。ほどなくして、ピンクのレグルスが並んで停車した。
ルリスだ。やっぱりルリスだ。
プレトはレグルスを降りた。ルリスも降りてくる。
「ルリス、どうして……?」
プレトは自分の目が信じられなかった。これは夢だろうか。
「ついてきちゃった。このルートで合ってたんだね」
ルリスが真剣な顔をして言った。
「荷物まとめて、私の家に住めって言ったのに……」
「だから、荷物まとめたよ。そして、こっちに来たよ」
旅の詳細も伝えていないのに、ついてくるなんて、正気の沙汰ではない。
「なんで?」
困惑して質問するプレトに、ルリスは説明した。
「どうしても一緒に行きたくて、諦められなくて。だから、アウトドアショップを梯子して、似たような装備を急いで揃えたの。昨日、見せてもらったときに、頑張って覚えたから。貯金ぜんぶ使っちゃった」
ルリスは晴れやかな顔をしている。追ってきたことに、なんの後悔もしていないようだ。
「今からでも、私の家に……」
プレトはルリスの身を案じたが、ルリスは言った。
「もう戻れないよ。実家にもいられないし、一文無しだし、プレトと一緒にいたいし、もうここまで来ちゃったもん」
ルリスは明るい茶色の瞳で、まっすぐにプレトを見てくる。プレトと一緒に行きたくて、全てを捨ててきたのが伝わってきた。
「帰れって言われても、勝手についていくからね。なんなら、わたしの方が先に、レインキャニオンに着いちゃうから」
「え? あ、そ、そっか」
プレトはおかしな返事をしてしまった。友人の鋼のような意思に圧倒されてしまったのだ。 自分の身に起きていることに、頭が追いつかない。プレトは夢である可能性を消したくて、友人に頼みごとをする。
「……ね、昨日みたいに、手握ってくれる」
「いいよ」
ルリスは、プレトの右手を自分の両手で、きつく握った。プレトも自分の左手をルリスの右手に添えて、きつく握りしめる。
ルリスの手は、昨日より温かくは感じなかった。プレトの手が、昨日より温かいからだろう。
さっきまで鼻歌で歌っていた曲が頭の中を流れる。あの映画の主人公には動物の相棒がいて、ひとりぼっちではなかった。それに比べてプレトはひとりぼっちで、戻れるかも分からない道を進んでいた。その落差にめまいがし、フィクションの主人公を妬んでしまっていた。
だが、今、最高の友人が手を握ってくれている。これは、夢でもフィクションでもない。
プレトも黒い瞳で、まっすぐにルリスを見詰める。
陽が傾き、星が姿を現しはじめた。
危険だから来るなと言うのは簡単だ。
連れて行く覚悟をするより、連れて行かない覚悟をする方が簡単だ。
プレトは、自分が簡単な方を選択していたことに、たった今、気が付いた。
ルリスを守れないかもしれないことが怖かった。
ルリスが自分の前からいなくなるのが怖かった。
自分がルリスの前からいなくなるのも怖かった。
だが、友人はそれらを全て承知の上で来てくれたのだ。
文字通り、全てを投げ捨てて来てくれたルリスを帰したくはない。
そもそもプレトも、ルリスと一緒に行きたかったのだ。
一緒に行ってほしいと泣いてすがりたいのを、ずっと我慢していたのだ。
やっと本心を伝えられる。
「一緒に行こう」
「うん」ルリスが嬉しそうに目を細める。
「一緒にレインキャニオンで、虹を採って来よう!」
「うん!」ヒマワリのような笑顔だ。
今度は空元気ではないことを、お互いに確信していた。
茜色に滲んだ空が、2人の門出を祝福してくれているかのように見えた。
(第7話につづく)
コメントを書く