プレトは思いきって質問した。
「チユリさん、顔色が悪いようですが、体調でも悪いんですか?」
「ううん、体調は大丈夫。でも、研究所の中がとっても最悪で……」
「最悪と言いますと、誰かの実験が大失敗したとかですか?」
「いいえ。どう言えばいいのか分からないけど、その、プレトさんへの反発というか……」
「え、私に反発? 所長じゃなくて、私にですか?」
「うん……なぜかみんな、プレトさんに反感を持ちはじめたの」
「みんな……?」
なんだか目眩がしそうだ。
「全員という意味ではないわ。だけど、大勢が……」
「……」
プレトは口を開けたが、何も言葉が出てこなかった。口の中が素焼きの器のように乾いている。ルリスが何も言わず、ミネラルウォーターを渡してくれた。一気に半分ほど飲むと、声帯が復活した。
「私、何かやらかしましたか?」
「何もやらかしていないわよ。ただの誹謗中傷なの。信じられないことに、大多数がスパイク肺炎を恐れているの」
「研究所の職員がですか?」
「そうよ。そのせいで、スパイク肺炎をただの風邪だと発信したり、ワクチンが危険だとか広めるプレトさんに怒りを覚えてるみたい」
「ウソ。みんなスパイク肺炎のことも、ワクチンのことも知ってると思ってたのに」
プレトは愕然とした。
「もしかして……」と、黙っていたルリスが口を開いた。「チユリさんがお疲れなのは、プレトが中傷されているのと関係があるんですか?」
「うーん……みんながプレトさんのことを理解していないことに納得がいかなくて、悪口をやめるように言ったり、変な噂を訂正したりしていたの。そうしたら私までだんだんと無視されるようになって……仕事を取り上げられて、今は倉庫の掃除を押しつけられてるの」
「チユリさんがですか?」
信じられない。採取チームの管理職なのに。
「一日中、倉庫で肉体労働をしているから、疲れちゃって。そのせいで顔色が悪いのよ、きっと」
「倉庫の掃除って、毎日、一日中ですか」
「そうなの。毎日片づけているのに、朝出勤すると、ゴミがぶちまけられているのよ。誰かが終業後にゴミ箱を集めてきて、ひっくり返してるんだと思うわ」
プレトもルリスも絶句した。チユリさんは何でもないことのように話しているが、きっと想像を絶した苦しみを覚えているはずだ。機内が葬式のような雰囲気になる。
「帰って来たばかりなのに、こんな話をしてごめんなさい。気分は乗らないと思うけど、プレトさんは帰還の報告に行かないとね。でも、ルリスさんは一緒に行かない方がいいと思うわ。きっと余計なことを言われるに違いないから。ルリスさんのお家は近いのかしら」
「ルリスは私の家に行きます。歩いていける距離だから、先に帰っててくれる?」
「分かった。クーラーつけて、掃除しておくね!」
ルリスはバックパックを背負い、早歩きで敷地から出ていった。家に向かう友人の背中を見ていると、無性に心細くなった。できれば傍にいてほしかったが、仕方がない。チユリさんが心配そうにプレトの顔を覗きこんでくる。
「ついていきたいけど、私がいると面倒なことになると思うから、倉庫の中から応援してるわね」
「はい……頑張ります」
通い慣れている研究所が、鉄でできた単なる塊のように見えた。私の職場ってこんなだったっけ? 建物に入り、普段利用している研究室の扉を開けた。仕事をしている同僚たちが一斉にこちらを向く。驚いたような表情をしている人が多いが、中には不快そうに唇を歪める人もいた。なんだかとても気まずい。針のむしろってこういうことかな。ひとまず直属の上司のデスクへ近付き、「ただいま出張から戻りました」と伝えた。上司はプレトを一瞥すると、やる気のなさそうな声で答えた。
「えらく時間がかかったね。採取チームならとっくに帰ってきて、通常業務に戻っているだろうな」
私は採取チームではないし、ルリスと二人で行ったんだから当然だろう……と反論しようかと思ったが、疲れているのでやめておいた。
「で、虹はあるの?」
パソコンの画面を見たまま尋ねてくる。
「乗り物に積んであります。こちらに運んできた方がいいでしょうか」
「そんなのいいよ。倉庫に入れといて。持って行った備品とかも片付けておいてよ」
「はい……」
「……なに? 他にも言いたいことあるの?」
「いえ、ございません」
「じゃあ、ぼーっと突っ立ってないで自分の仕事をすればいいだろう。鈍臭いなあ」
上司は、そう言って盛大にため息をついた。あれだけの危険を冒して虹を採取してきたのに、なんて冷たい態度なのだろう。プレトがとぼとぼと自分のデスクに着くと、シャッター音が聞こえた。隣のデスクに座っていた同僚が、なぜかプレトの写真を撮ったのだ。
「なんで撮ったの?」
「不審者を記録するため」
「なんだそれ。私は不審者じゃないよ。それよりさ、いま時間あるかな。荷物が山ほどあるから運ぶのを手伝ってもらえると嬉しいんだけど」
「イヤだよ。お前が使ったんだから、お前が一人でやれよ」
「え? 君が使った実験器具をしまうの、いつも手伝ってあげてたのに?」
同僚は返事をしない。なんて冷ややかなんだ。プレトはデザート号に詰めこんだ荷物を思い浮かべ、頭を抱えた。
あの量を一人で運んだり片付けたりするなんて……気が重いし、疲れたし、眠い。でも、なんとか必死で重たい腰を上げた。
プレトは自宅の玄関前に立っていた。もう見ることはないかもしれないと覚悟したボロ家に、こうして帰って来られたのは素直に嬉しかった。ドアを開け、中に向かって声を張った。
「ただいまー! 一人で帰らせてごめんね、トラブルはなかった?」
「何もないよ。ご飯できてるよ」
いつも通りのルリスを見たら、悶々とした気持ちが少し軽くなった。プレトは夕飯を食べながら愚痴を言った。
「みんな、やばいヤツを見るような目つきで私を見るんだよ。つっけんどんで冷たいしさ……結局、虹とハロは倉庫に置いて、備品を片づけてたら、午後が終わったの。今日はそれだけ」
「大変だったね。わたしも一緒に片づけられればよかったけど……」
ルリスはそこで一旦、言葉を区切り、何かを考えるような表情になると、再び口を開いた。
「流れであなたの家に来ちゃったけど、わたしって、ここにいてもいいの?」
「当たり前じゃん。どうしてそんなこと聞くの」
「出発前に、同居できないかもとか、どうのこうのとか言ってた気がする」
「あれは、私が追放されるから一緒にいられないかもっていう話だよ。今は関係ない。というか、絶対ここにいて! お願い! 職場が殺伐としているのに、家でも一人なんて寂しすぎるよ」
「了解。それなら遠慮なくそうさせてもらいます! そういえば、〈アネモネ〉さんが『都会の治安が悪化してる』とか言っていたよね。明日からの生活に備えて、クライノートに情報が出てないか、調べてみようかな」
ルリスが携帯電話を開いた。しばらくすると、表情が曇った。
「何か見付けた?」
「これ、プレト?」
ルリスが画面をこちらに向けた。そこにはプレトの写真があった。多分、昼間に隣の同僚に撮られたものだろう。
「なんか今日、突然、撮られたんだよね。って、この写真、どうしてルリスが持ってるの?」
「違う。クライノートにアップされてる……」
サーッと、血の気が引いた。慌てて自分の携帯電話を取り出し、クライノートを開いた。画面をスクロールしていくと、自分の写真を発見した。写真が貼り付けられている投稿には、プレトの名前と、研究所の職員で陰謀論者だと書かれている。個人情報丸出しだ。しかも、既に多くの人に閲覧されているようだった。
……どういうこと? いや、間違いない。あの同僚がやったんだ。だが、個人的に恨みを買うようなことはしていないはず。そもそも久しぶりに会って少し話をしただけなのだ。
携帯電話を握る手が細かく震えた。呼吸が浅くなる。投稿をもう一度見ると、さっきよりインプレッション数が増えていた。かなり拡散されているようだ。気分を落ち着かせたい。なにか喋らなくちゃ。
「もっと可愛く写してくれればよかったのになー。なんて」
「空元気はいらないよ。傷付いてるんでしょ? このアカウント……どうして個人情報を晒したりするの! プレトが何したって言うのよ!」
ルリスは、怒りで顔を赤くしている。
「誰がやったかわかる? わたしが明日、研究所に乗りこんで文句言ってやる!」
「隣のデスクの奴。でも、保護者同伴みたいになっちゃうから、ルリスは家にいてよ。明日出勤したら、投稿を消すように言ってみる……もう既に拡散されているから、意味ないだろうけど」
ショックが大きくて、強がることすらできない。空っぽになった胸の中に、しんしんと雪が積もっていくような虚無を感じた。
(第63話につづく)
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