プレトはその晩、ルリスのケガが早く治るようにと祈った。寝不足を心配しているルリスには、早く寝るようにと促されたが、祈っているうちに目が冴えてきた。さらに、不思議と手足が温かくなってきた。
夏も終わりに近付き、秋風を感じられるようになったからか、朝晩は少し肌寒い日も増えた。だから、芯から温まるこの感覚は、風呂以外では久しぶりかもしれない。幻の中でエレベーターに乗り、輝く人に会いに行ったときと似ている気がする。ルリスの寝息を聞きながら、彼女と人々の健康を一心に祈った。時間を気にせず願いを打ち明けつづけ、空が白んできた頃にストンと眠った。
目が覚めると、隣の布団にルリスが居なかった。キッチンへ移動すると、朝食の準備をしているようだった。
「作業できるの? 手のひら、まだ痛いでしょ?」
「それがね、ほとんど痛くないんだよ。見た目は変わってないけど、痛み自体はそろそろ消えそう」
「え、そんなことってある? ウチワモルフォの鱗粉って、数日は苦しむものじゃないの?」
「わたしもそう思うけど、痛くないものは痛くないんだよね。ほら、薬を塗って包帯を巻いておけば、日常生活に何の支障もないよ」
ルリスが手のひらを見せてきた。動かすのも、物を掴むのも辛くなさそうだ。いつも通り、手際よく朝食を作っている。やせ我慢をしているわけではないらしい。驚いてぽかんとしていると、ルリスが作業しながら言った。
「きっと、プレトが祈ってくれたからだよ。わたしが祈ってプレトが死なずに済んで、プレトが祈ってわたしの治りが早まったんだよ」
「こんなに効果があるとは思わなかった。凄すぎる。夢みたい」
「これなら、ムーンマシュマロも作れるから、引き続き人助けができるね」
ルリスはニカッと笑った。プレトは心の底から安堵した。万が一、良くならなかったらどうしようと心の隅で思っていたが、そんな心配は全く必要なかったのだ。
「トラブルから始まったけど、新しい研究所もちゃんと作ろうね。楽しみだよ」
ルリスは本当に楽しそうに話している。
「私も」
プレトの口角も自然と上がった。
時計が昼を示す頃、プレトはチユリさんに電話をかけた。ルリスが急速に回復していると伝えると、大きく息を吐く音が聞こえた。安心から来るため息だろう。
「本当に良かったわ。若いから重症化する可能性は低いと思っていたけど、心配だったのよ。それにしても治りが早いわね。そんなに効果のある薬なんてあったかしら?」
「祈ったからかもねって、ルリスと話してました」
「そういうことね。プレトさんナイスよ。祈った通りになるから、何でも祈ればいいの」
「そうします。あと⋯⋯同期はどうなりましたか?」
「それがね、昨日のビデオ通話の後、早退したみたい。今日は出勤していないようだわ」
「休みですか⋯⋯」
胸の奥がざわついた。
「連絡先を交換する前にあんなことになってしまったから、心配だけど、声をかけられないのよね」
プレトも同僚の連絡先は知らない。パラライトアルミニウム研究チームがなんとかしてくれるのを祈るしかない。チユリさんは話を続けた。
「新しい研究所のことだけど、もう申請してもいいんじゃないかと思うの。私も参加させてもらうつもりだし、他にも数人は集まるだろうし、ドタバタしながら申請を出すより、先に設立したほうが楽かなって。どうかしら?」
「確かにそうですね。活動内容によって変わるみたいですが、私たちが今やってることは、特別な許可取りは必要ないらしいので、研究所の名前と所在地だけで登録できるはずです」
「それならすぐに完了しそうね。研究所の名前は任せるわ。場所は決まってるの?」
「いい場所は知らないですし、敵が多いっていうのもあって、あまり移動したくないので、とりあえず私の家を所在地として登録しようかなと思ってました。研究所に良さそうな場所が見付かったら、そのときに住所変更すればいいかなと」
「そうね。それでいいと思うわ。でも、あんなことがあった後だから、研究所を作るのが嫌になったりしないかなって、少し心配してたの」
「ルリスも楽しみにしてて乗り気なので、やめたりはしないです。申請できたらお知らせしますね」
「楽しみにしてるわ。またね」
チユリさんとの通話を終えると、プレトは大家に電話をかけた。家を研究所として登録する前に了承を得ようとしたのだが、事情を話すと即答で許可が出た。ボロ家だから好きに改造していいとも言われた。
「大家さんが緩い人でよかったねー」
ルリスが笑いながら傍にやってきた。プレトは次に、パソコンを開いた。申請自体はオンラインだけでできるので、早速、行動に移すことにした。
「研究所の名前⋯⋯どうしよう。ルリスは何がいいと思う?」
「『プレパラート研究所』でいいんじゃない? SNSで使っているうちに愛着が湧いたよ」
「ルリスがいいなら、そうしようかな」
「プレトは何か案はないの?」
「コズミックジーニアスとか?」
「え⋯⋯」
ルリスが絶句した。
「ウソウソ、冗談。大丈夫、プレパラートにするよ」
「そうしてちょうだい」
『プレパラート研究所』で申請すると、すぐに返答が返ってきた。
「え、早っ。しかもダメだってさ」
「どうしてだろう、同じ名前の研究所はないはずだけどな。ダメな理由は、メールには書かれてないね」
「違う名前でも申請してみようか」
今度は『プレト研究所』にしてみたが、結果は同じだった。試しに、『ルリス研究所』や『ルリスズメダイ研究所』でも申請してみたが、やはり全てダメだった。
「えー、なんでー」
ルリスは天井を仰ぐ。
「ダメな理由が全く分からない。むしゃくしゃしてきた。もっとトリッキーな名前ならいいっていうの? 『プレプレルリルリ研究所』で申請してみようか」
「何、そのネーミングセンス。正気を疑うよ」
「おかしな名前で申請すれば、通るかもしれないじゃん」
「もしこの名前で通っちゃったらどうするの?」
「途方もなく泣く」
「そんなギャンブルしたくないって!」
「ええい! ままよ!」
プレトは申請ボタンを押した。
「いやあ! 本当に申請しちゃった!」
ルリスが悲鳴を上げる。少し経つと、またしても不許可の通知が届いた。
「やったあ、不許可だ!」
ルリスが喜びの声を上げる。
「やったね⋯⋯じゃない! 喜んでる場合じゃない! これ、名前以外の理由で弾かれているのかも」
試しに、代表者名をルリスにしてみたが、またしてもダメだった。
「むーん⋯⋯所在地のせいかなあ」
プレトが画面を睨みながら言った。
「この家の住所が原因ってこと? わたしたちが住んでいるからダメってこと?」
「そんなことあるかな……と言いたいところだけど、これまでの経験からすると、否定できないよね。私たちの敵は何でもする奴らだから」
「そんな⋯⋯せっかく大家さんが使っていいよって言ってくれたのに」
「なんとかならないかな。住所で弾くとか意味わかんないし⋯⋯思ったんだけどさ、これ、毎回同じ文章でお断りのメールが来ているから、設定された定型文が返信されてるっぽいよね」
「うん、一言一句同じだから、そうだろうね」
プレトは腕組みをしてしばらく考えた。浮かんできたのは一つの可能性だった。
「まさか、同期が情報を流したから、対策されてる?」
「同期の人?」
「そう。新しく研究所を作りたいっていう計画を同期が知って、その情報を国に伝えて、国が今こうして妨害しているのかも知れない」
「なるほど」
「国は、私たちが研究所を作れないように、関連ワードとかを片っ端から不許可にするように設定しているのかも。もしくは、わざわざ人員を配置しているか⋯⋯」
「なんてみみっちい⋯⋯実際のところは分からないけど、奴らならやりそうだね。わたしたちはワクチンの危険性を広めたわけだから、国からしたら目の上のたんこぶみたいなものだし、研究所なんか作られたらたまったもんじゃないだろうし⋯⋯」
ルリスはそこまで話すと、ゆっくりと口を閉じた。明らかに落胆している。申請が通らないのでは、研究所は作れない。このままだと、何か活動を始めたとしても、元研究員たちがただ集まるだけになってしまう。研究所があってこそできることも増えるのに、作れなければ現状のままだ。救える人も救えなくなってしまう。
「どうしようかな」
プレトはイスの背もたれに身体を預けた。
「どうしようね」
ルリスは半目になっている。せっかくルリスの回復が早まったのに、国に邪魔されてはやりきれない。ゴール前で足を引っかけられ、転ばされた気分だ。
「今度こそ祈るしかなくない?」
ルリスは半目のまま言った。
「⋯⋯そうだね」
チユリさんは、祈った通りになると教えてくれた。それが本当なら、もう神様に縋りつくしかないじゃないか。
(第90話につづく)
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