「私たちはできることからやっていくしかないよね。引き続き梱包、頑張ろっか」
その日の注文分を全て発送しても、食事をしても、ベッドに入っても、プレトの頭の中はチョコレート製品のことでいっぱいだった。ムーンマシュマロに代わる解毒剤になってくれると期待していたのに、これではパクられ損だ。しかも、部長補佐たちが虹の採取を極秘裏に行っていた場合、国際問題に発展する可能性がある。どうしたらいいのか分からない。強く目を瞑り、無理に眠った。
目を開けると、ムーンマシュマロを売っていた公園に一人で三角座りをしていた。空に浮かんでいるちぎれ雲が、レグルスのようなストライプ柄になっている。現実の景色ではなさそうだ。「どうしてこんなところに?」と戸惑っていると、後ろから少女の声がした。
「お姉さん」
「君か。こうして会うのは久しぶりな気がするよ。ここは幻の中なんだね」
少女はこくりと頷くと、プレトの手を引いて立たせてくれた。そのまま近くにあるドリンクバーのもとへ連れて行かれた。
「この不可解なドリンクバーも久しぶりだなあ。今回はGだっけ」
コップに注いで飲むと、よくあるグレープジュースだった。
「これこれ、こういうのでいいのよ。普段飲むなら、こういう普通の味がいいの」
「ムーンマシュマロは普通の味にしてたよね」
「知ってるんだね」
「いつも見ているからね。でも、お姉さんの口から近況を聞きたいな」
プレトはこれまでのことを思い出しながら話した。
「ずっと面倒ごとに巻きこまれているよ。職場ではいじめられたし、パラライトアルミニウムに沈められるし、ムーンマシュマロは営業妨害された上に、外国人らしき人たちにパクられるし」
「うんうん。何か良いことはあった?」
「ムーン液を作れたのは大きいかな。スパイス肺炎ワクチンの解毒剤になるからね。それに、所長がケーゲルを密売している証拠を見付けたし、私が殺されかけている映像が拡散されて所長が逮捕されたり、私がラピス溶液のレシピを暴露して、製薬会社の信用がガタ落ちしたり。こんなところかな」
「よく頑張ったね」
「まあね、ルリスが一緒にいてくれるから何とかやってこれたよ。でも、これからどうなっていくのかが見えないんだよね」
「なにか不安なの?」
少女が顔を覗き込んできた。瞳にストライプ柄の雲が映っている。
「部長補佐たちが作ったチョコレート製品に、ディユっていう外国のスパイスが入っているんだけど、それが危険だって指摘したんだ。SNSで拡散されたよ」
「うん」
「でもさ、所長が釈放されないように対応しているのは、部長補佐たちなんだよね。だから、部長補佐たちが不利な状況になったら、所長が野放しになるんじゃないかって不安なんだ」
「うんうん。どうしたらいいと思う?」
「とりあえず、弱っている人がディユを食べるのは阻止しないといけないかなって……」
「そうすればいいじゃん」
少女はあっけらかんとしている。
「えー、適当に言ってる?」
「違うよ。部長補佐っていう人は、一人で活動しているわけじゃないよね。仲間がいっぱいいるなら、チョコレート製品のことと所長のことは、担当している人が違うかもしれないよ」
なるほど。確かにその通りだ。部長補佐が全ての仕事の中心を担っているとは考えにくいし、組織だって活動しているのなら、ある程度は役割分担をしているはずだ。チョコレートと所長については、分けて考えてもいいのかもしれない。少し気が楽になった。
「他には何かある?」
「あるよ。今はとりあえずパラライトアルミニウムやラピス溶液を売ってるけど、今後はどうなるかなって。まだ貯金でやっていけてるけど、もう研究所には戻れないし、ルリスにひもじい思いはさせたくない」
「生活の心配もあるってことだね」
「そういうこと。悩みごとって尽きないものなのかな。一つ解決したと思ったら思わぬ邪魔が入ったりするし、私の人生って呪われているの?」
「お姉さんのことをサタンが狙ってるから、そのせいで問題が起きているっていうのはあると思うよ。サタンって覚えてる?」
「夢の中で私にのしかかってきた黒いモヤだよね。あのときは、君が金属バットで助けてくれたよね」
「覚えているんだね。ちょっとこっちに来てくれる?」
少女に呼ばれ、ドリンクバーの背面に回りこんだ。すると、ドリンクバーの裏側に赤い手形がついていることが分かった。手形の表面は、ぬらぬらと光を反射している。まるで血だらけの手でしがみついたかのようだ。うっすら鉄臭いニオイがして、思わずぎょっとした。
「な、なにこれ」
「さっき、このドリンクバーを使った人がつけたみたい」
「さっきって? ここには私たちしかいないけど……」
「ドリンクバーはここに来る前、別の人のところに行っていたの。勝手に移動するんだよ」
「初耳なんだけど……しかも共用なんだ。この手形の主は大丈夫なのかな」
「わたしの担当じゃないから分からないけど、サタンにこっぴどくやられちゃったみたい」
プレトは何か言いかけたが、口を閉じた。何を言いかけたのかは自分でも分からなかった。訊きたいことは沢山あるはずだが、口から出てきたのは当たり障りのない質問だった。
「君の担当は私ってこと?」
「うん。あのね、お姉さんは知らないと思うけれど、最近、サタンが大暴れしているの。だから、こんな風にこっぴどくやられないようにね」
「そうしたいのは山々だけど……」
赤い手形を一瞥し、生唾を飲みこんだ。下手をすると自分もこうなるのだろうか。どんな目に遭わされるのだろう。
「サタンはね、悪い心を持った人間を操って、実際に悪いことをさせたりするんだ。お姉さんをいじめた奴らはきっと、サタンの操り人形なんだろうね」
「え、サタンって人間を利用するの?」
「そうだよ。実際に嫌がらせをするには、人間を使ったほうが手っ取り早いでしょ?」
「サタン自体、いっぱいいるって言っていたよね。悪い人間も利用できるなんて、ますます勝てる気がしないよ」
プレトは途方に暮れた後、少し考えてから話した。
「攻撃されるということは、私も悪い奴ってこと? こちらに非があるから目をつけられるの?」
「それは違うよ。サタンはね、良いことをする人や、頑張っている人の邪魔をするの。努力は報われないんだって思い込ませて、人生に絶望させたいんだよ」
「性格悪すぎない?」
「悪魔だからね」
「あ、そっか」
プレトは地面に腰を下ろした。芝生の湿度がズボン越しに伝わってくる。空はマジックアワーを迎えたらしく、ブルーとオレンジのグラデーションに染まっていた。幻想的な空をスカイフィッシュの群れが横切っていく。優雅に飛ぶ姿が、黒いシルエットになって見えた。口を半開きにして景色を眺めていると、自分の意思とは関係なく唇の端から言葉が漏れた。
「一体どうしたらいいんだ」
「何が?」
隣に少女が座った。
「サタンとか、悩みごととか、ぜんぶ。幻だろうが現実だろうが、血まみれになるのはごめんだよ。ルリスも巻き込みたくない」
「祈れば、全部解決するよ」
「前もそう言っていたよね。でも、悪い人間たちのことはどうしたらいいの。しつこいからといって金属バットで殴ったら、こっちが罪に問われちゃうよ」
「サタンも悪い人間も、祈ればいなくなるよ。お姉さんの心配ごとも全部解決するよ」
「そんなに上手くいくものなの?」
「これまでも、祈ったら上手くいったでしょ。だからまた祈って。自分でどうにかできないことは、祈ればいいんだよ」
「君がそう言うなら……」
「それとね、悪い奴らって、虚勢を張って数で勝負しているだけなんだよ。悪いことをしているのがバレないように、自分を大きく見せているだけ」
「そういうものなの?」
「そういうものなの。正しいことをしているお姉さんたちの方が断然強いから、弱気にならなくていいんだよ」
何者でもないこちらの方が強いなんて、急に言われても信じられないが、少女の真剣な顔には説得力があった。
「励ましてくれてありがとう。頑張ってみる」
「うん。35日は飲まないでね。行ってらっしゃい」
少女に肩を叩かれると、急速に意識が遠のいていった。目を覚ますと、寝たときと同じ体勢で自宅のベッドに横たわっていた。隣の布団ではルリスが眠っている。友人の寝顔を見ると、不安な気持ちがじわじわと消えていった。プレトはベッドの上に胡座をかくと、目を閉じて静かに祈りはじめた。
『悪い奴らがいなくなって、全てがうまくいきますように。どうか、みんなが助かりますように』
(第80話につづく)
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