このままではムーン液を流通させることができない。解毒剤をみんなに届けることができない。プレトはソファに身体を横たえた。地獄のパラライトアルミニウム責めから生き延びたのに、こんなところでつまずいてしまうなんて。全くやる気が出てこなくなってしまった。
寝転んだままクライノートを見ると、ワクチンを食べてから体調を崩したという投稿がいくつも見受けられた。入院している人もいるらしい。そういった投稿には、批判的なコメントが数多く寄せられている。逆に、ワクチンを称賛するような投稿には、賛同のコメントがたくさん付いていた。きっと、製薬会社などに雇われた人間が、スパイク肺炎ワクチンの普及に加担しているのだろう。被害者の声を目立たせないために妨害しているのだ。
悔しさとやるせなさが胸に渦巻いた。所長たちは一体、どれだけの人たちをどこまで不幸にするつもりなのだろう。何人の命を奪おうと計画しているのだろう。どこに到達したら気が済むのだろう。考えても分かるわけないけれど、思考が止まらない。この状況から抜け出す方法が全く思い浮かばない。が、輝く人は祈りながら頑張るようにと仰っていた。祈ったらヒントをもらえるかもしれない。仰向けのまま口を開いた。
「ルリス、お願いがあるんだけど」
「うん?」
「一緒に祈ってくれないかな。ワクチン被害者とか、その家族の投稿を見ていたら、投げ出したいのに投げ出せなくなっちゃったよ」
「了解。チユリさんもお祈りするって言っていたもんね。きっと、ムーン液をみんなに渡す方法があるよ」
ルリスと共にしばらく祈ってから、寝室へ移動した。夢の中で何かしらヒントを得られるかも知れないと期待し、ベッドに入った。だが、泥のようにこんこんと眠ったせいか、全く夢を見なかった。
少し残念な気持ちでいると、携帯電話に着信が入った。レインキャニオンを往復する際、いろいろと助けてくれた少年からだ。ごく普通に電話に出てから慌てた。行方不明のフリをしているんだった! 少年と話すのはまずいかもしれないと思ったが、時すでに遅し。こうなったら会話するしかない。
「師匠、げんき? ……なんか慌ててる?」
「いや別に、なんでもないよ。どうかしたの?」
「なんかさー、変わった夢を見たんだ。知らない女の子に、師匠に電話をかけるように言われたよ。すげぇしつこかった」
「面白い夢だね。私はなんの夢も見なかったよ。困っていることがあるから、いい夢を見たいなと思っていたのに」
「何に困ってるの」
「身体にいい液体が完成したから、薬として販売したいんだけれど、申請が通らないみたいなんだ。みんなに届けるにはどうしたらいいかなって悩んでいたの」
「ふーん、大変そうだね。ぼくは薬じゃなくてお菓子がいいな。お菓子にして売ったらダメなの?」
「お菓子?」
「身体にいいものが入っているお菓子もあるでしょ。ビタミンとか、しょくもつせんい? とか。甘いだけだと母ちゃんにダメって言われるけれど、身体によさそうなお菓子は買ってくれるんだよね」
「……」
「師匠、寝ちゃったの?」
「君は……天才なのか」
「え? まあね、師匠の弟子だからね!」
電話したことは内緒にするよう念を押し、礼を言って通話を切った。少年が伝えてくれたアイディアを話すと、ルリスはソファから立ち上がって言った。
「そっか、薬としての申請は通らなくても、食品としてなら通るかもしれないよね。わたし、食品衛生責任者の資格を持ってるんだった」
「食品衛……ん?」
「食品の製造とか販売をするときに必要な資格だよ。調理師と栄養士の資格もあるから、役に立つかも」
「栄養士監修って銘打てば、少しは注目が集まるかな」
「それいいね。ムーン液は無味無臭だから、味や香りをつけるのには苦労しなさそうだし……いろいろ試作してもいいかな」
「お願いします」
プレトが言い終えるなり、ルリスはすぐさまスーパーへ買い出しに出かけた。一人になって冷静に考えてみると、ムーン液の材料は虹とカスタードルフィンの真珠だけだから、わざわざ薬として申請する必要はなかったのだ。解毒剤イコール薬だと思い込んでいたが、少年の無邪気な発想がくだらない固定概念を壊してくれた。
ルリスがお菓子作りの材料をどっさり抱えて帰ってくると、紅潮した顔でこう言った。
「ムーン液を加熱しなくて済むように、最後にお菓子の中に注入するのがいいと思うんだ。だから、チョコレートかマシュマロが有力候補。常温保存ができて、気温で溶けないという面ではマシュマロがいいかなあ」
「私には食品の知識がないから」と、プレト。「ルリスがいいと思うようにやってみてほしい」
「はーい。味はどうしよう」
「ほうれん草ババロアは?」
ルリスは飲んでいたお茶を吹き出した。
「ぶふっ。それってジュースの味だよね。確かに美味しかったけど、あの際どい組み合わせを丸パクリするのはちょっと気が引けるかな。それに、できるだけ大勢に届けたいから、万人受けする味がいいかも」
「なるほど……みんなはどんな味が好きなのかな」
プレトはひとまずネットで検索してみた。
「有名アイスクリーム店の人気フレーバーは、上からキャラメル、チョコレート、ストロベリーらしいよ。これさ、3つとも作っちゃえば? どの味がヒットするかなんて分からないし、多くの人に興味を持ってもらえるように、いろんな味を用意するのもアリだと思う」
「となると、パッケージを分けるのが大変になるかな」
話し合った結果、キャラメル&チョコレートと、ストロベリー&レモンの2パターンを作ることにした。レモンもよく見るフレーバーということで採用だ。
「これならパッケージは2種類で済むし、味は4つになるね」
ルリスは満足げに頷くと、小分けにしたムーン液に香料と着色料を加えた。解毒成分に影響が出ない程度に、キャラメル、チョコレート、ストロベリー、レモンもそれぞれ加えていく。味見すると、どれも美味しかった。
「私にできることはある?」
「このゼラチンを湯煎してくれるかな」
訳が分からないまま、ルリスの指示に従う。
「調理学校時代を思い出すなあ。アレルギーに考慮して、卵白なしにしようかな」
と言いながら、友人はマシュマロをどんどん作っていった。完成したマシュマロの中に、味をつけたムーン液を注入していく。シリンジと呼ばれる注射器型のスポイトを使った。
「ムーン液そのものにとろみがあるから、勝手にジュレみたいになってくれて助かるー」とルリス。
美味しい分量を探るため、ひたすら作って食べ、作って食べた。午前中から始めたはずなのに、傾いた陽が窓から覗いている。昼食を抜いたが、大量のマシュマロを食べているせいで満腹だった。最善だと思われるマシュマロができあがると、ルリスが急に出かける支度を始めた。
「どこに行くの?」
「まだ保健所が開いている時間だから、製造許可の申請手続きをしてくる。それと、ここのキッチンでは許可が下りないから、実際に販売するマシュマロを作るときはレンタルキッチンを使うね」
「そうなんだ……?」
「ま、わたしに任せてよ」
ルリスが外出している間、ネットでレグルスについて調べてみた。たくさん作ったマシュマロを自転車や徒歩で運ぶのは無理があるし、生活する上でレグルスは欠かせない。そろそろ購入しなければ。
……でも、私たちのレグルスが廃車になったのは所長のせいなのに、どうして自分で買わなくちゃいけないんだ。弁償させたいところだが、今は我慢するしかない。
レグルス屋のサイトをいくつか見ているうちに、とんでもないレグルスを見付けた。派手さが尋常じゃない。おそらく10色以上でペイントしてある。それぞれのカラーで細い縦線を描いており、奇抜なストライプ模様になっていた。中古の商品だが、それにしても異常に安かった。このペイントのせいで売り手がつかないのかもしれない。普通は選ばないが、マシュマロを宣伝するレグルスとしてはアリかもしれない。ルリスが帰ってきたら見せてみよう。どんな顔をするかな。
(第71話につづく)
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