バックパックに荷物を詰めなおし、虹の採取用の装備に切り替えた。縄梯子を近場の岩にくくりつけ、レインキャニオンの谷間に垂らした。長さは充分に足りている。
「シャモジは軽いけど大きすぎるから、さすがに抱えては降りられないな……」
「ちょっとかわいそうだけど、落としてみる?」
ルリスらしからぬ発言に、プレトは驚いた。思わず友人の顔を見る。
「無理に抱えて降りて、わたしたちが縄梯子から落ちたら元も子もないよ」
ルリスは真剣な表情をしていた。
「そうだね……」
二人は、シャモジと名付けた危険植物を、谷にそうっと落とした。シャモジは岩壁をゴロンゴロンと転がると、槍のように地面から突き出た何かにぶつかり、何事もなかったかのように着地した。ゆっくりと歩いている。
「けっこう頑丈なんだね」と、ルリス。
「意外だね……肉塊は近くにいないし、私たちも降りてみようか」
縄梯子はとても扱いづらかった。プレトとルリスは、時おり小さく悲鳴をあげながら降りていった。レインキャニオン自体が、それほど深くはないのが幸いだった。地面に足を着けると、シャモジに再びロープをくくりつけ、反対側をルリスが持つことにした。
「着いたね」
「ね」
自宅からここまで長い道のりだったが、意外とあっさりと降りられたので、拍子抜けしてしまった。
プレトは辺りを見回してみた。槍のように物騒な地形の原因は分からなかった。だが、崖の上から見たときは剣山のように見えたものの、いざ近くに来てみると、見た目の印象よりも間隔があり、普通に歩くことができた。
「シャモジを先に歩かせて、届くところに虹があるかどうか確認しよう。危険そうだったら引き返そうか」
「了解」
ルリスはそう返事をすると、シャモジをつついて先頭に誘導した。危険植物がゆっくりと進むので、二人の歩みもゆっくりだった。それにしても、雲に包まれた人間たちが、巨大な植物を手懐けているのだ。誰かに見られでもしたら、未知の生命体としてニュースの一面を飾ることになるだろう。だが、ここはレインキャニオンだ。そんな心配はいらない。
「シャモジちゃんがゆっくり歩くから、今のうちに写真とか動画とか撮っておこうね。頑張っているところをSNSにアップしないと!」
ルリスはそう言うと、携帯電話で記録しはじめた。
……ニュースの一面にはならなくても、ネット上を賑わせることにはなりそうだ。
白っぽいピンク色の肉塊が、近くに一匹現れた。顔が見当たらないので、どこを目指して歩いているのか分からず、とても不気味だ。身体の中央から突き出た触覚のようなもので、周りを探るようにしているので、それがついている方が前なのだろう。小さく、耳障りな鳴き声を発している。
肉魂がシャモジに近付いていくと、ぜんまい型のツタを俊敏に動かし、あっという間に肉塊を捕まえ、花部の穴に放り投げた。穴をしきりに開閉して咀嚼している。じゅぶじゅぶという音が、プレトの鼓膜を揺らした。思わず顔をしかめる。隣を見ると、友人も同じように顔をしかめていた。
「水っぽい音だね。骨はないのかな?」
ルリスが呟いた。
「どうだろうね。さすがに穴を覗く気にはなれないな……」
シャモジの花部の底面が少し膨らんだように見えた。食事で胃袋が膨らむようなものだろうか。しかし、まだまだ余裕がありそうだ。
「シャモジが肉塊に対応してくれることが分かったから、このまま進んでいこうか。こまめに溶液をスプレーしようね。雲が霧散したら、私たちもシャモジの餌食になるよ」
「気をつけながら進もうね」
植物の速度に合わせて少しずつ進んでいくと、虹が空中に浮かんでいた。
「あれじゃ、手が届かないね」
ルリスが見上げながら言った。
「中途半端な位置にあるとね……地面に落ちているものもあるはずだから、それを狙おうか」
さらに進んでいくと、数メートル先にも虹を発見した。地面に接していたので、簡単に採れそうだった。
「あれ良さそうだね! 小学校の校庭に半分突き刺さってるタイヤみたい」
「その巨大バージョンだね。肉塊もいないみたいだし、このまま行っちゃおう」
「そうだね……ちょっと、うそ、うそ、あれ!」
「どうした?」
ルリスが指差した方向に目をやると、悪夢が蘇ったような気がした。冷や汗が吹き出してくる。密林で罠として使われた、円錐型の機械が浮かんでいたのだ。新型防犯装置と言われているアレだ。
「ケーゲルじゃん! なんでここに!」
「いま捕まったら絶対に終わるよ! 走ろう!」
まだ気付かれていないことに期待しつつ、プレトとルリスはシャモジを引きずるようにして、もと来た道を走りはじめた。少し走ったところで振り返ると、ケーゲルは音もなくこちらに近付いていた。
「うわあ、最悪だ」
慌てて辺りに視線を動かしてみるが、特に隠れられそうな場所はない。それにケーゲル相手では、隠れても走っても、どうしようもないだろう。しかも、前方からは肉塊たちが歩いて近付いてきている。巣穴から出てきたのだろうか。
「こんなところにも罠を仕掛けていたの?!」
友人の悲鳴のような声が、すぐそばで聞こえる。
「ああ……」
プレトは情けない声を出しながら、頭の中で悲しい計算をした。窒息するのと肉塊に襲われるのとでは、どちらが楽に死ねるだろうか。苦しむ時間が短いのは肉塊相手だろうが、ケーゲルに囚われれば、肉塊に邪魔されずにルリスと最後の会話ができそうだ。ルリスに手を引かれ、シャモジの花のかげに二人でしゃがみこんだ。
「シャモジちゃんと一緒に閉じ込められれば、前に閉じ込められたときより、マシな展開になるかな」
「……」
プレトは何も言えなかった。ケーゲルが、すぐそこまで迫っている。ルリスが強く手を握ってきた。こちらも強く握り返す。自分の鼓動がうるさくて、なにも考えられない。そろそろ電気の膜が出てくるだろう。覚悟が決まらないままケーゲルを睨みつけていたが、円錐型の機械は二人の頭上をウロウロと浮遊するだけだった。まるで迷子になった回遊魚のようだ。
「あれ? なんで捕まえてこないんだろう」
ルリスが不思議そうに呟く。シャモジが勝手に歩いていき、二人の姿が丸見えになったが、それでもケーゲルは彷徨っていた。
「もしかしてさ……雲に包まれているから、私たちをうまく感知できないんじゃ……」
「そうかも……ね……」ルリスがそう言って、恐る恐る立ち上がった。やはり膜は発射されない。プレトも立ち上がったが、結果は変わりがない。
「雲の防護服……すごいね!」
そう言ったルリスの瞳が輝いている。
「ほんとだね……」
そのとき、シャモジがツルを振り回し、ケーゲルを打ち落とした。理由は分からない。邪魔だったのだろうか。ケーゲルは岩壁に叩きつけられると、バキンッと確実にどこかが割れたであろう音を発した。そのとたん、パラライトアルミニウムと思われる液体が流れ出てきた。
すると、こちらに歩いてきていた肉塊たちの注意がそちらに移った。壊れたケーゲルに群がり、身体の中央から突き出た長いものの先端を、液溜まりに浸している。どうやら、あの長いものは口のようだ。夢中になって吸いあげている。
「えーっと、助かったのかな?」
ルリスが困惑している。
「そうかもしれない……雲とシャモジのファインプレーだ」
そのとき、不意にプレトの頭に『あなたたちを必ず守る』という言葉が浮かんだ。あの輝く人は、このことを指して言ったのだろうか?
「ようし、今のうちに虹を採っちゃおう……まだケーゲルがあるかもしれないから、気をつけようね……」
ルリスに促され、シャモジを連れて、地面に接している虹に近付いていった。
「へー、近くで見るとこんな感じなのか」
プレトは思わず呟いた。虹は地面から二人の腹の高さまであり、7色の層になっていた。それぞれの色の境界が、ほんの少し滲んで混ざり合っている。先ほどは半分になったタイヤに譬えたが、こうして見てみると、半分に切られた巨大なバームクーヘンと言った方がいいかもしれない。
「大きいといえば大きいけど、あっちにあるものよりは小さいかな」
「でも、採取しやすいサイズだね。じゃ、さっそく切ってみるか」
「いよいよここまで来たんだね……よく頑張ったね」
ルリスが感慨深そうな声で言った。数日前まで、家と職場を往復をするだけの日々だったのに、今ではこうして、無謀な旅の目的に到達している。なんだか不思議で誇らしい気持ちだった。
「がんばったよ、本当に、本当に……」
プレトはそう言いながら、装備の中からノコギリを取り出し、一番外側の赤色に刃をいれた。
(第53話につづく)
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