「パラライトアルミニウムは食べたらダメなの? 虹は齧っても大丈夫なのに?」
ルリスが眉をひそめながら訊いてきた。
「虹は一口くらいならいいのかもしれないけれど……パラライトアルミニウムは、ラピス溶液と化学反応させてできたものだから……シロップとラムネということは、経口ワクチンだよね? 食べたら消化機能が弱って、胃腸が荒れに荒れるだろうね」
「そんな……でも、治験とかはやったんじゃないの?」
「どうだろ。治験していたとしても、開発を始めたのは春でしょ? 今は夏だから、3〜4ヶ月くらいしか経ってないし……こういうのって、開発するのに普通は10年以上かかるものなのに、いくらなんでも表に出すのが早すぎるよ」
ルリスが困惑したような顔をしている。プレトは事態の急展開に頭がパンクしそうになったが、なんとか声を絞り出した。さっきルリスがくれたチョコレートのおかげで、脳がショックの最中でも働いているのかもしれない。「製薬会社のホームページは見れるかな……ワクチンについて、何か情報が出ているかもしれない……」
プレトは携帯電話を操作しようとしたが、指が震えてうまく文字を打ち込むことができなかった。気を張っていても、身体は正直だ。その様子を見たルリスが、代わりに自分の携帯電話で検索してくれた。
製薬会社のホームページは、ムイムイハリケーンの影響で文字化けしてはいたが、大部分は読み取ることができた。その中に、ワクチンについての記述があった。
〈スパイク肺炎ワクチンについて〉
パラライトアルミニウムに含まれる成分が、呼吸器官を強化し、スパイク肺炎への予防効果が期待できます。
・シロップタイプ……パラライトアルミニウム、ネオベナム、クエン酸水和物、ゴマ油、水酸化ナトリウム、その他
・ラムネタイプ……パラライトアルミニウム、ネオベナム、ブドウ糖、コーンスターチ、クエン酸、その他
「パラライトアルミニウムで呼吸器官は強くならないけどな……ネオベナム? ……あれ?」
プレトは思わず顔をしかめた。何かを思い出しそうだ。ルリスは真剣な表情のまま、プレトが話しはじめるのを待っている。
しばらくするとプレトは、数年前の記憶を掘り起こすことに成功した。そのとたん、胃の中に溶けた蝋を流し込まれたような気分になった。思い出さずにいた方が、完全に忘れてしまっていた方が、もしかしたら良かったのかもしれない。自然に呼吸が浅くなった。言う気になれない。けれど、みんなに伝えなくてはならない……まずは目の前のルリスからだ。プレトは重い口をゆっくりと開いた。
「入社したての頃……パラライトアルミニウムと組み合わせると、人体に有害になるものを調べろって言われたんだ。同僚と一緒にいろいろ試していったんだけど、ネオベナムと混ぜたときが一番ヤバかった」
「どんな風にヤバかったの?」
「なんか……赤血球が変形してトゲトゲになるんだよね、ウニみたいに……」
「ウニ!」ルリスが痛そうな声を上げた。
「マウスから採った血液に、パラライトアルミニウムとネオベナムを混ぜたものをかけたんだ。それを顕微鏡で見たら、赤血球がトゲトゲになってて……」
「……」
「血液検査キットを使って、私の血でも試してみたんだ。同じ結果だったよ……そのことを上司に報告したら、実験はそこまででいいって言われたんだ。その後は別の業務を任されたから、すっかり忘れていたよ。実験自体がどうなったのかもよく分からないし、もしかすると、他にも悪い効果があったのかも……あのときは注意喚起をするために調べさせられたと思っていたのに……あれを人体に入れるなんて……そんなのは絶対にダメだ!」
「……それって数年前の話だよね? その頃からワクチンに使う計画があったのかな?」友人は首をかしげながら言った。
「へ?」
「長期計画で、危ない経口ワクチンを作ろうとしていたのかなって……目的は謎だけど……」
「え、さすがに謎すぎない? なんのためにそんなことを?」
「それは……分からないけど……でも、わざわざ危険な組み合わせを採用しているんだよね? 知らずに混ぜちゃったなんてことはないだろうし……」
「そんな……わざと毒を飲ませるようなこと、するかな。大勢が身体を壊して、誰か得をするのかな……」
そこまで言って、プレトは思わず背筋が凍りついた。毒をばらまいて、得をしそうな奴らを思いついたのだ。
「製薬会社は、得をするかも……毒ワクチンで病気になった人のために、新薬を開発して売るとか……でも、うーん」
ルリスはしばらく口ごもっていたが、やがて小声で言った。
「現にプレトは……製薬会社の、ラピス溶液の秘密に気付いて追放されたわけだし……」
「ああ……そうだ……そういうことをする奴らだった……毒ワクチンは規模が大きすぎるけど、あり得ない話ではない……」
ムイムイハリケーンが、地響きのような音を立てながら移動している。まるで獣の唸り声のようだ。プレトは唇を噛んだ。悔しくてたまらない。知らない間に利用されていた可能性が出てきたからだ。ルリスが調べ物をしながら口を開いた。
「そもそもだけど、スパイク肺炎の症状って、咳と発熱くらいだよね? こんなの、ただの風邪だと思うけど、ワクチンなんか要るのかな」
「要らないよ」
「わたしたち、ニュースとかほとんど見ていないから知らなかったけど、世間では想像以上にスパイク肺炎について騒がれているみたいだね。パラライトアルミニウムの枯渇とか、それが原料のワクチンとか、関連した話題が一気に登場したから、みんな、かなり混乱しているっぽいよ」
「そっか……」
「近未来的な電子レンジはともかく、用途不明の円錐型の機械にも使われてるのが知れ渡っちゃったしね。わたしたちの活躍のせいで!」
「むぅ……」
「思ったんだけどさ、あの簡易的な物置小屋に置いておけるくらいだから、パラライトアルミニウムが枯渇しそうっていうのは嘘だよね。本当に枯渇しそうなら、もっと厳重に管理するはずだもん。どこかに大量に隠し持っているんだよ。きっと、枯渇するって嘘をついて、値上げして、お金を搾り取る気なんだよ」
ルリスは一生懸命に調べながら、必死で話している。
「安全のためだと思って調べたのに……良かれと思ってやったのに……全部、気のせいであってほしい!」
プレトは声を震わせながら言った。両手をきつく握りしめていると、新入社員だったころの記憶が、ぽつりぽつりと頭に浮かんできた。
デスクの下に丸まって、白衣を被って仮眠をとった日もあった。『社会人つらすぎー』と、同僚と励まし合った日もあった。疲れすぎて食欲がないときに、先輩が飴をくれた日もあった……それらが、すべて人体に害を及ぼすためだったと言うのか? 怒りと悲しみで、血液が沸騰しそうだ。涙まで出てきた。知らない間に、危険なワクチン開発の片棒をかつがされていたのだ。
「お昼寝しよう」と、ルリス。
「昼寝?」唐突で驚いた。「今から寝るの?」
「うん。今は移動できないし、携帯電話の調子も悪いし、この際だから、寝ちゃおうよ」
そう言いながら、ルリスは寝袋を広げはじめた。返事をする前に、昼寝をする流れになってしまった。友人に促されるまま、プレトは寝袋に身体をねじ込んだ。
「力を抜いて、目を閉じてね」子供を寝かしつけるような声色だ。
「……パラライトアルミニウムだけなら、食べても胃の洗浄で済むかもしれないけれど、ネオベナムとの組み合わせは、絶対にやっちゃダメだ」プレトは独り言のように呟いた。
「うんうん。プレトのせいじゃないよ、絶対にね。さっきわたしに話してくれたことを、クライノートで暴露しまくろうよ! ムイムイハリケーンがいなくなったらやろうね。一緒に」
「うん」
「えらいえらい!」
頭を撫でられた。犬になった気分だ。ルリスはきっと、から元気で励ましてくれているのだろう。出発の前日もそうだった。そんな優しさが本当にありがたかった。一人だったら、罪悪感で正気を失っていたかもしれない。
プレトは目を閉じた。すると、製薬会社のホームページ……スパイク肺炎ワクチンについて記載されていたページが頭に浮かんできた。説明文には、柔らかな線で描かれたイラストが添えられていて、全体的にパステルカラーでまとめられていた。それは、ワクチンの危険性を無理やり上塗りしているように見えたし、きっとそのつもりであのデザインにしたのだろう。
虫酸が走る。老若男女が容易く受け入れるようにしているのだ。しかも、ワクチンの供給は来月からだという情報も記載されていた。スパイク肺炎の規模は不明だが、特に外国では大変な騒ぎになっているらしい。急いでなんとかした方がいい。
人類は知らず知らずのうちに、地獄の入り口に立たされているのかもしれない。あんなもの、みんなに食べさせてはいけない。みんなの赤血球がトゲトゲになってしまう。他にも悪影響があるかもしれないし……プレトは気持ちが逸るあまり、思わず頬の内側を噛んでしまう。血の味が舌に滲んできた。
(第40話につづく)
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