名前を呼ばれ、思わずドアにかけていた手を止めた。ストーカーに名前まで知られているのか? そう思うと、虫酸が走った。プレトは声を無視し、再びレグルスに乗り込もうとしたが、また声をかけられた。
「待てよ! 頼まれたんだ!」
プレトは顔をしかめながら、声の方に顔を向けた。ブラウンのレグルスが停まっている。操縦席側の窓が開いていて、そこからドライバーが話しかけてきているのだ。乗っているのは、どうやら一人だけのようだ。プレトがじっとしていると、男が再び話しかけてきた。
「……おまえ、プレトだよな?」
プレトは黙って相手を睨みつけた。迎えに来たとはどういうことだろうか。話が読めない。男がレグルスを降りて、こちらに近付こうと足を踏み出してきたので、プレトは大声で怒鳴りつけた。
「止まれ! それ以上近づくな!」
トラブル続きの上に、一度は殺されそうにもなったから、プレトはもうこれ以上、知らない人間と関わりたくなかった。何より、ルリスを余計な危険に晒したくなかった。男は指示通りにピタッと止まる。プレトは言った。
「迎えってなんだ! 頼みってなんだ! どうせストーカーだろ!」
「ストーカー?」
男は、恐る恐るといったふうに口を開く。
「レインキャニオンを目指す女の2人組がいるから、案内してくれないかって頼まれたんだ。髪と目が黒くて、小柄で色白なのがプレトってことしか知らねえ」
「……そんな人、ごまんといる」
「オレだってそう思ったよ。でも、こんな辺鄙なところを移動してる奴ら自体少ねえし、女の二人組ってことで探したんだ」
「プレト……」
ルリスから声をかけられた。プレトは男から目を離さずに答える。
「そのまま操縦席にいて。すぐに出発できるように準備してて」
「分かった」
短く返事が返ってきた。ルリスがエンジンボタンを押す。ルリスの操縦なら、誰が相手だろうと振り切れるはずだ。プレトは思い切って男に尋ねる。
「どういう経緯?」
おかしなところがあれば、無視してすぐに出発しようと思ったのだ。少し視線を動かすと、いつの間にか上空の雲が厚くなっていた。オルタニング現象で落ちてきた雲は、積乱雲の赤ん坊だったらしい。男は立ち止まったまま答えてくる。
「突然、頼まれて急いで来たんだ。このまま行くと砂漠に入っちまうかと思って」
「なんで君がきた?」
「近くにいたから」
「誰から頼まれた?」
「匿名だとさ」
「……は?」
匿名で頼むとは、どういうことだろう。プレトは黙って、眉間にシワを寄せた。目の前の人物が、何を言っているのかよく分からない。これ以上、会話をする必要があるのだろうか。
そのとき、1台のレグルスが近付いてくるのが見えた。ボディのカラーは黒だ。そのレグルスは、プレトたちの姿を確認したとたん、突然スピードを落とし、ゆっくりとこちらに近付いてくる。プレトは思わず冷や汗をかいてしまった。
「多分、ストーカーだ」
ルリスがそう言って、ハンドルを強く握りしめた。すると男が突然、突拍子もないことを言った。
「レグルスに乗ってろ。追い返してやるから」
「は?」
プレトが困惑していると、男は念を押すように言う。
「いいから乗ってろ、突っ立ってられても困るんだよ。でも動かすなよ」
とりあえずプレトは、言われるままにピンクのレグルスに乗り込んだ。黒のレグルスは、少し離れたところでエンジンをかけたまま停まった。プレトは汗ばんだ両手を、膝の上でぎゅっと握りしめた。
黒いレグルスの、助手席の窓が開いた。誰も降りてこない。こちらの様子を伺っているのだろうか。男はそのレグルスに数歩近付き、それから少し間を置いて話しかけた。
「どこから来たんだ」
プレトは眉をひそめながら状況を見守りつづける。隣を見ると、ルリスも同じように眉をひそめていた。
「こいつらを追っかけてるのか? ファンか何かか? サインならオレが書いてやるよ」
しかし相手の声は、プレトとルリスには聞こえてこない。
「そんなこと、教えるわけねえだろ」
「は?」
「ない頭、使って考えてみろ。中身が空なのか?」
男の言葉だけでは、会話の流れはよく分からない。相手の言葉も気になってくる。
「何を話してるんだろうね」
プレトがルリスに耳打ちする。
「全く分かんないよ。一応、追い払おうとしてるんだよね? うまくいかなそうだと思ったら、すぐにレグルスで逃げるから」
ルリスが真剣な顔をして答えた。
「そのときはよろしく」
非常に頼もしい友人だ。
「おまえらが何も言わねえなら、オレも言わねえよ」
「……」
「あのなあ……」
「さっさと帰って昼寝でもしとけ」
「……」
聞き取れないところもあるが、男はずっと会話を続けている。プレトは、ルリスに小声で話しかけた。
「……あいつ、どう思う?」
「うーん、正直よくわからない。どこの誰なんだろうね」
「もしストーカーを追い払えたら訊いてみよう……追い払えたらの話しだけど」
「追い払えなかったら、わたしが撒くから」ルリスは再び、U字のハンドルを握りしめた。
男は声のトーンを一段落とした。
「いい加減にしろって言ってんだよ」
「聞こえなかったのか? なんのために耳がついてるんだ」
「……」
「そんなに暇ならボランティアでもしとけよ」
「はあ?」
「……」
「どういう理屈なんだ」
「それ、大根ココアか? うまいの?」
「おまえ、ドリアンミルクティーなんか飲んでんのか。それはさすがにやべえだろ。人間性を疑うぞ。味覚どうなってんだよ」
さらにいくつか問答しているようだったが、しばらくすると、黒いレグルスは来た道を引き返していった。プレトとルリスは、思わず大きく息を吐き出した。
「なんか……終わったね?」と、ルリス。
「……そうだね」
本当に追い返せたので、拍子抜けしてしまった。こんなにもうまくいくものなのか。プレトは助手席の窓を開け、男に声をかけた。
「追い払えたみたいだね」
「まあな。完全におまえらのこと狙ってたぞ」
「……だろうね。ストーカーされてるのが確定したのは収穫になったよ。どうもね」
ストーカーされているのかどうか、これまではよく分からなかったが、目の前で行われたやり取りで、それがはっきりとした。理由は分からないが、自分たちはやはり何者かに狙われているのだ。プレトは質問する。
「どうやって追い払ったの?」
「少し話しただけだ。あんなの簡単だぞ。女だけだと大変だろうけどな」
男は腕を組みながら言った。こういうトラブルは、男が対応したほうが早いということだろうか。
「追い払ってくれてありがとう……案内してくれるって言ってたけど、あなたの予定では、どのルートでレインキャニオンまで行くつもりなの?」
ルリスが男に質問をする。
「どこって、街中を通るルートしかねえだろ」
「砂漠は?」と、プレト。
「酔狂じゃあるまいし、わざわざそんなところ通らねえよ」
「危険だから?」
「まあな。それにほら、天気見てみろ」
プレトとルリスは、助手席から頭上を見上げた。
「雨降りそうだろ。知らねえと思うけど、砂漠で大雨が降ると、洪水になるんだぞ」
「ふうん」そのことはプレトも知っていたが、黙っておいた。
「ちょっと待ってて」
プレトとルリスは、男を待たせて相談をする。
「案内してもらう? それとも断る? どうしようか」
プレトが友人の意見を求めた。
「そうだね……できるだけ安全に移動したいっていうのが本音だけど」
「もともと街のルートを行く予定だったし、今みたいに助けてもらえるなら、案内してもらってもいいかもって思えてきた」
「そうだよね……ねえ、トラブルがあったら、今みたいに対応してくれるの?」
ルリスが男に話しかけた。
「……あんなんで良ければな」
プレトも男に訊いてみる。
「誰に案内を頼まれたか、教えてほしいんだけど」
「教えられるなら教えたいけどよ、オレも知らねえんだ」
なんだか含みのある言い方だ。だが、知らないのなら仕方がないとも思える。
「なんで近くにいたの?」
「仕事」
「なんの仕事?」
「初対面の奴に、そこまで教える必要あるのかよ」
「そんなに言いたくないの?」
男は唇を結んだ。仕事内容を言うのがそんなにイヤなのだろうか。空気がピリピリする。全員がしばらく黙っていたが、ルリスがやがて沈黙を破った。
「あなたは、レインキャニオンに行ったことあるの?」
「いや、ない」
「そっか……もう一回待っててくれる?」
「……おう」
面倒くさそうにしている男を尻目に、ルリスはプレトにこう尋ねてくる。
「研究所の、他部署の人という可能性はないの?」
「他部署の人か……隣の部署以外の人は、よく知らないからな……」
プレトの所属する研究チーム以外だと、採取チームの人くらいしか知らない。人数も部署も多いからだ。
「もしそうなら、安心だなと思ったの」
「そうだね……でも、職場が匿名で助け船を出したりするか?」
「所長の目をかいくぐるためとか?」
「あ……」
確かに、チユリさんはこっそり重装備を持たせてくれた。あり得ない話ではないかもしれない。
「そろそろいいか。このまま待ってたら、日が暮れちまいそうだ」
男はしびれを切らしたように言った。ルリスがプレトにウインクしてくる。最終判断はプレトに任せてくれるらしい。
「……じゃあ、案内してもらおうかな。先に走ってもらってもいい?」
どこの誰かは分からないが、味方である可能性を信じることにした。
「おう……連絡手段は何か持ってるか? 車内だと会話できないだろ。特に話したいことはないけどよ」
「通信機は……ある」一言余計なのが気になったが、事故で壊れたレグルスから回収していたものを渡すことにした。
「さすがに名前くらいは教えてほしいな」
「……匿名で頼まれたから、オレも匿名で受けたいんだが」
「私は名前、知られてるのに?」
男は目をそらし、黙ってしまった。先ほどは必死でプレトたちを呼び止めていたのに、いざ関わりを持とうとすると引いていってしまう。なんとも不自然な態度だ。
「ハンドルネームみたいなのでもいいよ」
ルリスがプレトの思考を読んだように、男に助け舟を出した。男は、少し考えてから答える。
「……じゃあ、キリンパンで」
「キリンパン?!」
プレトはすっとんきょうな声を上げた。キリンパンとは何なのだろう。キリンではダメなのか。
「なにそれ!」ルリスも困惑したようだった。
「なんでもいいだろ……そっちは?」
つっけんどんな言い方だ。そっちとは、ルリスのことだろう。
「んー、金髪かソバカスで」ルリスは、自身の見た目の特徴を言った。
「ソバカスのほうがハンドルネームっぽいな。それでいいか」
「いいよ」
ルリスは男の提案を了承した。二人の呼び名が決まったらしい。これから男と一緒のときは、ルリスをソバカスと呼ばなくてはならない。プレトだけが本名になってしまった。
「まあ、行くか。腹も減ったしな」
男はそう言うと、ブラウンのレグルスに乗り込み、ゆっくりと発進した。ルリスの操縦で彼の後をついていく。これからこの旅は、どうなってしまうのだろう。プレトの心に一抹の不安がよぎった。
(第20話につづく)
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