
二人掛けのソファに座り、膝に乗せたウサギを撫でていると、ルリスがニンマリしながら隣にやってきた。映画を選び終えたらしい。
「プレト、これ覚えてる?」
携帯電話の画面をこちらに向けている。映画のサブスクサービスが表示されていた。
「癒し系ホラーの映画でしょ? 覚えてるよ。これを観た後に命令書を読んでぶっ倒れそうになったんだよ。サブスクに上がったんだね」
「今週のランキングで一位になったっぽいよ」
「ほんとに? 好み分かれそうだけどなあ。今からこれを観るの?」
「ううん、こっちにしようと思う」
ルリスが指したのは、国内のホラー映画だ。題名の文字がおどろおどろしく崩れている。
「これ、ガチなやつだよ。原作の小説を読んだことあるけど、怖かったよ。癒し系ホラーとは比べ物にならないくらい。ルリスはホラー苦手なんだから絶対にやめたほうがいいって」
「ここまで色々乗り越えたし、今のわたしならいけるかもしれない」
「それとこれとは別だと思うよ。こんなの観たら、一週間は一人でトイレに行けなくなるよ……寝るときだって電気を点けたままにしないといけないし、お風呂でも目を開けたまま頭を洗うことになるよ」
「この歳でそんなことになる?」
「なるなる。絶対なるって。夜中に震えながら私のベッドに潜り込んでくる姿が容易に想像できる」
「うーん、そうかなあ」
視聴するか否か、迷いはじめたようだ。プレトは提案した。
「そうだ、一緒に湖へ行かない?」
「話、変わり過ぎじゃない?」
「今朝の天気予報を見たら、湖の辺りでオルタニング現象が起こりそうだったんだ。雲を採りに行きたいんだよね。ホラー観るより絶対に楽しいよ。暇つぶしで映画を観ようと思っただけだし、湖に行っても同じじゃない?」
「そういえば、オルタニング現象を詳しく調べたいって言ってたもんね」
「うん、そう。あとさ、そのうち子供向けの科学実験教室をやりたいって話してたじゃん? 花火を作る練習をしておきたいんだよね」
「打ち上げ?」
「いや、手持ち。ドクチワワを導火線に使えば、市販のより長く楽しめて、カラフルな花火が作れるかもしれないんだ。雲と一緒に湖畔で採取したい」
「えー、でも、ドクチワワを使うと大きい音が鳴るんじゃなかった? ここの庭でやるにしても、公園でやるにしても、爆弾魔と間違えられちゃいそうなんだけど」
「ちょっと工夫したら、音は何とかなりそうなんだよね。ドライフラワーにしてから使うとか」
「ドクチワワのドライフラワー? 字面がすごいよ。チユリさんとビケさんは今日はお休みなのに、所長さんは熱心ですね」ルリスはからかうように言った。
「所長って呼ばないで。これは趣味の範囲内だよ」
「それじゃあ、ホラーは帰ってきてからにしよう。明るいうちに行こうか。いつもの湖でいいんだよね?」
プレトとルリスは話しながら準備を整え、ストライプのレグルスに乗り込んだ。レグルスを操縦しながら、ルリスは切り出した。
「そういえばだけど、ドクチワワって今の季節でも採れるの? 枯れちゃってるんじゃない?」
「頑丈な多年草だから、今でもがっつり採れるよ」
雪が降ってきた。自宅の周りは快晴だったが、天気予報通り、こちらには雲が多いらしい。レグルスのフロントに雪がくっつき、すぐに溶けて水滴になった。水を弾く加工がされているから、雨や軽い汚れはなんてことない。もちろん雪も。
フロントの端に、溶けずに残った雪が溜まっている。顔を近付けると雪の結晶がくっきりと見えた。樹枝状六花と呼ばれる一般的な形だ。寒いのはあまり好きじゃないけど、自然の芸術品が見られるのなら冬も悪くないと思える。
「プレトさ、誕生日プレゼントあれでよかったの?」
「これがよかったの」プレトはポケットから携帯電話を出して見せた。先日、プレトは誕生日を迎えた。そのタイミングで、ルリスとチユリさんとビケさんから携帯電話のカバーをもらったのだ。プレトがリクエストしたものだ。サファイアのようなブルー地に、星に見えるラメが散りばめられており、下の方にはゴールドのカラーで『Preto』と名前が彫られている。名前の刻印は三人からのサプライズだった。
「お気に入りになったから、粉々になるまで使わせてもらうね」
「ふふふっ、機種変するまででいいよ」
「ほんとにありがとう。人はなぜ、毎年歳を取るのだろうか……」
「それ毎年言ってるよね。人に限らず歳は取るものだよ」
「確かに」
「レベルアップだと思えばいいじゃん。一年分の経験値が、誕生日に更新されて年齢に反映されてるだけだよ」
「いいこと言うね。さすがプレパラート研究所の古株だね」
「研究所はできたばかりだし、所属したのはみんな同時期だし!」
ルリスは笑いながら、レグルスのスピードをゆるめた。目的の湖が近付いたのだ。すると、楽しそうなルリスが、ふと不思議そうな表情をした。
「んー、あれなんだろ」
プレトも前方に目を向けた。何かがある。見覚えのないものだ。
「ドラム缶? 普段、あんなのないよね」
「ないね。とりあえず、いつも停めてるところに行くね」
レグルスが停車し、プレトとルリスは地面に足を着けた。風は穏やかで、冷えた空気が清々しい。二人の頬に小粒の雪が当たり、音もなく溶けた。凪いだ湖面が目の前に広がっている。大人の足で、10分ほど歩けば一周できる湖だ。そこにぽつんと、異質なものが転がっている。横倒しになった赤いドラム缶だ。背の低い野草にうっすらと雪が積もっている。この湖畔の景色は、世界にベールをかけたかのように幻想的で懐かしさすら抱かせる。そこに一点、ドラム缶の赤が投入されたことで、シーツに血が付着したような嫌悪感が生まれた。
「……やっぱりドラム缶だったね」ルリスの声に抑揚がない。
「ねー。気になるけど、先に採取を済ませてもいい? ちょうどオルタニング現象も起きてるし」
「そうしよう」
空から落ちてきた雲に、ルリスがラピス溶液をかけて固定していく。その間、プレトは地を這うようにゴソゴソと動き回り、ドクチワワを採取した。手に入れた雲とドクチワワをデザート号に積み、再びドラム缶に視線を向けた。
「あのドラム缶どうしよう。湖ギリギリにあるから、転がり落ちちゃったら、水に錆が溶け出すかもしれないよね」
「それはよくないね。ここの湖、結構色んな魚が棲んでるし、生態系に悪影響が出るかも。湖に落ちない場所まで転がそうかな。ルリスも一緒にやってくれる?」
「はいはい」
二人でドラム缶に近付いた。正確な大きさは分からないが、縦は1メートル弱くらいだろうか。プレトの手のひらを当てて測ったところ、円の直径はおよそ60センチだった。湖のふちに1メートルほどの円柱が倒れている構図だ。
「なんでこんなものがこんなところにあるんだろうね。不法投棄かな」ルリスはドラム缶を観察しながら、周りを歩き回っている。
「ただのゴミならまだいいけど、爆発物とかだったらシャレにならないね」
「こわっ!」ルリスは飛び退いた。
「冗談だよ。テロが目的なら人がもっと多い場所に設置するだろうし。可能性としては毒物の方が高いけど、周りの植物が元気だから、その線も薄いだろうね」
「よかった……危険物かどうか判別する方法はないのかな。ドラム缶自体には何も書かれていないし……プレトは中身をスキャンできる機械とか持ってないの?」
「家になら簡易版があるけど、今はないなあ。通報するしかないのかな」
「えー、通報かあ」
ルリスは明らかに乗り気でなかった。これまで警察からイヤな目に遭わされてきたのだから当然だ。プレトだって通報しなくて済むのならしたくない。
「とりあえず、ちょっと押してみようか。せーの」
ルリスに隣に立ち、ドラム缶に両手を添え、前に向かって押してみた。ドラム缶はゴロンと一回転すると、蓋の辺りが軋んだ。思いのほか古いのかもしれない。メリメリとかギィィといった音がして、ほんの少し隙間ができた。
「ちょっと開いちゃったね」と言った瞬間、ルリスが「……きゃああっ!」と叫んで思いきり尻もちをついた。プレトは駆け寄った。
「な、なんだ! どうしたの!」
「隙間から何かが出てる……指?」
ルリスはドラム缶を指した。声が震えている。ルリスの指先を視線で辿ると、確かにドラム缶から何かがはみ出している。白っぽいベージュだ。隙間からほんの少し出ているだけで、よく見えないが……人間の足先のように見える。それと一緒に、黒い毛も数束飛び出ていた。見てはいけないものを見てしまった気がして、背筋に悪寒が走った。私たちは、こんな不気味な物のすぐ傍で、雲や雑草をのんきに採取していたのか。
口の中が苦くなった気がする。風が強くなり、まつ毛に付いた雪が二人の目元を濡らした。
(第2話につづく)
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