
白っぽい足先と黒い毛がはみ出している……ということは……
「どういうこと?」
ルリスの弱々しい声が耳に届いた。
「どういうことかな……触ってみる?」
「ウソでしょ……」
「さすがに素手は怖いけど、その辺に木の枝が落ちてるから」
プレトは足元にある小枝を拾い、はみ出している物をおそるおそるつついた。
「どんな感じ?」
ルリスの声は今にも泣きそうだ。
「なんか、思ったよりも硬い……」
「硬いの? もしかして人形だったりする?」
「いや、人形にしては精巧すぎるというか……爪とかちゃんとあるし……」
「爪? それじゃあ、本物の人間なの?」
ルリスの言葉で、これは人間の身体なのだと思い至った。いや、本当は最初からそうではないかと思っていた。目の前の状況が信じられず、信じる気になれず、わざと思考回路を鈍らせていた。だって、ドラム缶に人間が入ってるなんて、普通ではあり得ないことだ。突然の怪事件を受け入れられるわけがない。だけど……
「開けてみようか」プレトは提案した。
「ふぇ?」
「ドラム缶の蓋、開けてみようか。ちょうど歪んでるから、レグルスに積みっぱなしにしてた装備を差し込めば、テコの原理で開けられると思う」
「なんで開けるの?」
「……まだ間に合うかもしれないから。ほんのちょっとでも心臓が動いてたら、心停止したばっかりだったら、間に合うかも」
自分で言っていて信じられなかった。私は閉じ込められた人を救おうとしている。もう既に硬くなっているのに。頭が回っていないのだと、自分の中にいる冷静な部分が諭してきたが、身体が動く方が早かった。プレトはレグルスに走って棒状の装備を手に取り、すぐに駆け戻った。蓋とドラム缶本体の隙間に差し込み、力いっぱい押した。ドラム缶の縁を支点にして、力を込めていく。ギリィと耳障りな音を立てながら、蓋が少しめくれた。しかし、一人ではこれが限界かもしれない。
苦戦していると、ルリスが立ち上がった気配がした。何も言わず、プレトの手元に両手を添え、一緒に押し込んでくれている。鼻をすする音だけが聞こえる。格闘していたのはほんの数分だったはずだが、とても長く感じられた。やっと蓋が開き、その人の身体に触れると、氷のような冷たさだった。なんとか引っ張り出し、意を決して顔を見ると、既に事切れてしまっているのが素人目にも分かった。
真っ白な顔に真っ白な唇。そこに、ほんの少し口紅が残っている。閉じられた瞼の辺りには、滲んだアイシャドウとマスカラがこびりついている。黒くて長い髪が頬に貼り付いていた。この寒空の下、キャミソールと下着しか身に着けていない。身体つきや服装などから判断して、女性なのは確実だろう。プレトたちより若いかもしれない。
手遅れだった。間に合うわけがなかったのだ。耐え難い脱力感に襲われた。この女性は、前屈のような体勢でドラム缶に収まっていた。二つ折りになっていたから、足先と髪の毛が一方向からはみ出していたのだ。でも、どうしてこんなことに……?
ヒュッと短く息を吸う音と、ドサリという重い音がほぼ同時に聞こえた。振り返ると、ルリスが倒れていた。眉間にシワを寄せて「うーん、うーん」と唸っている。怖いのが苦手なのに、とっくに限界だったのに、一緒に蓋を開けてくれたのだ。遺体を直に見てしまったのだから、こうなるのも当然だ。
……と、プレトの中の冷静な部分が分析しているが、身体は正直な反応を示していた。心拍数が上がり、呼吸が浅くなる。視野が狭まる。倒れたルリスと遺体を見て気が動転しているのだ。
「えっと、えっと、救急車呼ぶべき? 誰のため? ルリス? あの人?」
自分を落ち着けるために、思考を口に出した。
「ルリスは、呼吸も安定してる、ケガもしてない。だから大丈夫。きっとそのうち起きる。でも、あの人は……もう……」
先ほどまで苦かった口の中が、だんだんと酸っぱくなった。食道が焼けるように痛む。胃酸がこみ上げているのだろう。回らない頭を叩き、警察に連絡した。遺体を発見したことと、今いる場所を伝え、力なく電話を切った。胃が締め上げられるような感覚があり、急いでルリスの傍を離れる。四つん這いになり、胃の内容物を吐き出した。ルリスが用意してくれた食事と、自分で淹れたコーヒーが、半端に消化された状態で出てきた。一通り吐き終えると、吐瀉物の一部が唇の端から垂れた。糸を引きながら、握ったままの携帯電話に着地する。もらったばかりのカバーが汚れてしまった。
「ぶふっ、ぐふふ」
奇妙な声が聞こえた。それは自分の口から漏れたものだった。泣いているのか笑っているのか。判断がつかない不気味な声。ハイハイするようにルリスの傍へ戻った。隣に身体を横たえ、温かい手を握った。ルリスの表情は険しいままだ。少し顔を動かすと、女性の姿が視界に入った。糸を切られた操り人形のように、不自然な体勢で転がっている。
「ぐふふっ、ぐぶっ」
また不気味な声が漏れた。今度はおそらく自嘲も混ざっている。あの女性は酷い目に遭った可能性がある。それなのに自分は、楽な体勢で寝かせてやることもできないのだ。驚きと恐怖と混乱の中で嘔吐し、気絶した友人の手を握りながら震えるしかない。他者を気遣う余裕がないのだ。ついさっきまで、助けたいなどとぬかし、蓋をこじ開けていたくせに。いざ現実を目の当たりにすると、恐怖で何もできなくなった。なんて愚かでちっぽけなんだろう。
「ごめん、ごめんなさい……ごめんなさい」
誰に向けるともなく、ブツブツと謝った。女性に向けて? 巻き込んだルリスに向けて? それとも、自分の罪悪感を軽くするため?
「プレト?」
視線を動かすと、ルリスと目が合った。薄く開いた瞼から、明るい茶色の瞳がのぞいている。意識が戻ったのだ。
「わたし、気絶しちゃったっぽいねえ……ごめんね」
「ううん。ごめん、ごめんよ……」
ルリスの手を強く握った。遠くから、パトカーのサイレンが聞こえてきた。二人とも身体を起こし、遺体に背を向けた状態で三角座りをした。ぴったりと身体をくっつけて、手を握り合ったまま、パトカーを待った。
やがて、パトカーが数台到着し、警官たちがゾロゾロと降りてきた。通報時に遺体を発見したと伝えていたからか、彼らの動きはスムーズだった。一人の警官が傍にやってきた。見覚えのある男だった。以前、自宅に不審者が現れた際に通報したら、この警官がやってきたのだ。チユリさんが「あの人なんだかウマヅラハギに似てない?」と耳打ちしてきたので記憶に残っている。ずさんな対応をされたことも覚えている。皮肉を込めてハギ警官と呼ぶことにした。
「通報したのはどちらですか?」
「はい」
小さく返事をしながら、小さく右手を上げた。ハギ警官はプレトを見るなり、またお前かと言いたげな表情を浮かべた。こちらから警察に迷惑をかけたことはないはずだが。
「えーっと、プレトさん、遺体を発見したそうですね」
「はい」
「どうしてこんな湖にいたんですか? 遺体を発見するまでの行動を教えてもらえます?」
プレトは、雲とドクチワワの採取目的で湖に向かったことや、ドラム缶を開けるに至るまで、できるだけ詳しく伝えた。ハギ警官は相槌を打ちながら、時折メモを取っている。再び質問してきた。
「亡くなられた方とは、知り合い?」
いつの間にかタメ口になっている。
「いえ、全く知らない方です」
「そう……遺体を触ったのはどうして?」
「さっきも話した通り、助けられるかもしれないと思ったんです。だから、ドラム缶から出して、顔を見ました。でも、既に亡くなってて……」
「それだけどさ、蓋を開ける前に亡くなってるって分かんなかったの?」
厭味ったらしい口調だ。
「へ?」
「だって、足先と髪の毛がはみ出してたんでしょ? その時点で普通、察せないかな」
「……大ケガをしても奇跡的に一命を取り留める人はいます。亡くなってるかもしれないっていう考えもよぎりましたが、助かる可能性があると思いたかったんです」
「ふうん……正義のヒーローみたいだね。でも、亡くなってるかもしれないのに、知らない人の身体に触れるものなのかな。しかも素手で」
「命がかかっているかもしれない場面で、そこまで考えられません。私は素人ですし」
「今回のこと、君たちがやったんじゃないの? だからベタベタ触れたんでしょ」
「なにを……」
「自分たちがやったっていう証拠を隠すために、湖畔でごちゃごちゃ作業してたんじゃないの。そんで、第一発見者を装って通報したんでしょ。そういう殺人犯、結構いるんだよね」
ハギ警官は、こちらを疑っていることを隠そうとしなかった。プレトの目をじっと見てくる。沼のような瞳だ。彼の声色には、面倒ごとを適当に処理したい思惑も見え隠れしている。これでは、どう答えても揚げ足を取られるだけではないか。思わず生唾を飲み込んだ。
(第3話につづく)
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