
こちらを見据えている大蛇が、カパリと口を開いた。喉の奥まで丸見えだ。このまま飲み込まれたら、いくら夢の中だとしてもさすがにマズい気がする。刺激しないよう、小さく後ずさりしたとき、ヘビが大きくのたうった。絶対に食べられる! 終わった! 尻もちをついて固く目をつむった。
⋯⋯何も起こらない。瞼を薄く持ち上げると、苦しげに痙攣しているヘビが見えた。尾の方へ視線を動かすと、幻の少女がいた。なんと、ヘビの胴体に大きな斧を突き立てている。彼女が助けてくれたのだ。プレトは少女のもとへ駆け寄った。
「一緒に逃げよう!」
「待って! 手伝ってほしいの。このヘビをぶつ切りにしないといけないの!」
「こいつをぶつ切りに?」
ヘビは身体を震わせながら、時折、頭を持ち上げている。早く仕留めないと噛みつかれてしまいそうだ。プレトは少女と共に、全体重を斧へかけた。ずぷずぷと斧が沈んでいく。肉を切断する感触が柄を通して伝わってくる。噴き出した血が、二人の服を濡らした。
「こいつ、強いサタンなの。ここで仕留めないと、お姉さんの仲間を傷つけに行くかもしれない!」
「なんてこった⋯⋯」
さらに力を込め、刃を動かし、なんとか切断することに成功した。サタンは、黒板を引っ掻いたような声で絶叫し、霧散した。斧も同時に消え、血が付着した服は元通りになった。
「お姉さんありがとう。わたしだけだったら倒せなかったよ」
「こちらこそだよ。助けてくれたんだよね」
「お姉さんを迎えに来たら、サタンに襲われてたからびっくりしちゃった。あいつ、お姉さんたちの成果を妬んで傷付けようとしてたんだよ。ここでケガすると、肉体にもダメージが現れるから、危ないところだった」
「サタンはそんなに妬んでるの?」
「すっごく妬んでるよ。お姉さんの四肢を引きちぎって、肥溜めで溺れさせたいくらい妬み狂ってるよ」
「うっげ⋯⋯悪魔かよ」
「悪魔だよ」
「そうだった。てか、迎えに来てくれたんだね?」
「うん。お姉さんに招待状が届いてまーす。じゃじゃーん」
少女は、スカートのポケットから封筒を取り出した。受け取ると、紙製ではなかった。ダークグレーの封筒を光の下で動かすと、虹色の輝きが表面に走った。
「まさかこれ、ラブラドライト?」
プレトの口から驚きが漏れた。この封筒は、宝石を加工して作られているのだ。透けるほど薄くスライスされているのに、ヒビ一つない。こんな技術は見たことがない。
「封筒を開けてみて」
少女に促され、封に手をかけた。シーリングスタンプで閉じられている。このスタンプはおそらくゴールド製だ。ためらいがちに開封すると、中から一枚のカードが出てきた。縞模様がついているから、きっとアゲートだ。そこに、ゴールドの箔押しで文字が書いてあった。
『プレトさんのために祝宴を準備しました。ぜひ遊びに来てください』
「祝宴⋯⋯っていうのは、パーティのこと? どうして私に? というか、招待状が素敵すぎて内容が頭に入ってこないよ」
うっとりしながらカードを眺めていると、少女に手を引かれた。
「みんな、お姉さんに会えるのを楽しみにしているよ。行こっ!」
少女はプレトの手を掴んだまま駆け出し、空間から飛び出した。プレトが叫ぼうとしたとたん、二人の身体がふわりと宙に浮き、引き上げられる感覚に包まれた。周りの雲をどんどん追い抜き、光の中へ昇っていった。やがて上昇が終わると、少女と手を繋いだまま地面に降り立った。
「⋯⋯めちゃきれい⋯⋯ここ、どこ?」
「天国だよ」
「天国! 私、死んだの?」
「元気に生きてるよ。遊びに来ただけだから心配しないで。あの門をくぐるよ」
少女に手を引かれるまま進み、門の前に立った。城壁はジャスパーで、門は真珠でできている。美しさに目を奪われたが、よく観察すると繋ぎ目がない。まさか、巨大な真珠を加工して門にしてるの?
「そうだよ」
プレトの思考を読みとった少女が答えた。動悸が激しくなってきた。こんな凄いもの、見たことがない。門を抜けると、大通りが広がっていた。純金だ。周りを歪みなく反射するほど、精密に磨き上げられている。もしくはそのように加工してあるのかも? 建造物は全て見たことのない形をしているが、景観を損ねるものは一つもなかった。あちこちで知らないものが動いているし、知らないものが飛んでいる。何が何なのか全く分からない。きっと、私には想像もつかないほど技術が進んでいるのだ。全てが個々の美しさを保ちつつ、お互いの美しさを引き立て合っている。知らないものしかないが、機能美と造形美を兼ね備えているということは、プレトにも一目で分かった。心臓が早鐘を打っている。美しすぎてドキドキしているのだ。脳が視覚からの情報を処理しきれていない。込み上げてくる幸福感に耐えられそうにない。
すると、突然、視界が真っ暗になった。
「お姉さん、起きて」
身体を揺さぶられて起きた。
「美しすぎて気絶しちゃったんだね」
「⋯⋯え、そんなことあるの?」
「いま自分が体験したじゃん。わたしも初めて来たときは気絶したから、気持ちわかるよ」
恐怖で気絶するのは聞いたことあるけど、美しすぎても気絶するんだ⋯⋯というか、何かに乗っている?
「お姉さんが気絶している間に迎えが来てくれたの。もうすぐ目的地だよ」
「いつの間に⋯⋯」
乗り物が停まり、プレトと少女は降りた。筆舌に尽くしがたいほど豪華な建物が目の前にあった。宮殿だろうか。絢爛という単語では、この華やかさを表現することができない。今後、世界で一番美しいジュエリーを見る機会があったとしても、石ころに思えてしまうかもしれない。
発光している人が、弾けるような笑顔で出迎えてくれた。案内されるまま祝宴の会場へ向かうと、あまりの眩しさに目をつぶってしまった。ものの譬えではなく、全てが文字通り光り輝いているから、本当に目がくらんでしまうのだ。会場にいる人も料理も、太陽のように光っている。なんとなくの表情とシルエット、性別くらいしか判別できない。
「わ、わぁ⋯⋯わぁ⋯⋯」
挨拶したいのに、変な声しか出てこない。手を引かれ、目の前の席に着いた。
『来てくれて、ありがとう』
頭の中に男性の声が響いた。この声は聞き覚えがある……輝く人だ。はっきりとは見えないが、一番奥の席にいるようだ。
「お招きいただきありがとうございます⋯⋯でも、私が何かしたのでしょうか」
疑問に思っていたことを口にした。
「サタンどもが、取り返しのつかない悪事を実行しようとしていたから、人々を守るためにあなたを使った。よく頑張ったね」
「⋯⋯え?」
「あなたには自覚がなかったかも知れないが、私があなたの身体を使って、人々を助ける働きをしていたんだよ。レインキャニオンへ行くことになったのも、ムーンマシュマロとステラグミを開発したのも、そのほか全ての活動も、みんな私の導きだったんだよ」
「⋯⋯」
突然の話に驚いたが、非常に名誉なことだというのは、空気感で理解できた。
「あなたは素直な心を持っているし、友人を大切にしている。だから導くことができると判断したんだ。少女を担当につけて傍で見守らせたが、彼女のことも大切に思ってくれたね。導き通りに活動してくれてありがとう。おかげで大勢の命を、サタンや悪人たちから守ることができた」
話を聞いているうちに、涙が頬を伝った。悲しくない。どうしようもなく幸せなのだ。人生の風向きが突然変わったことを不思議に思っていたが、その答えが今ようやく分かった気がした。
「あえて苦難の道を行く必要があったが、よく最後まで耐え抜いたね。あなたたちを苦しめてきたサタンや悪人たちは、例外なく全員裁かれるから安心しなさい。そして、悪人に報いがあるように、善人にも報いがある。今日はあなたを労いたくて呼んだのだ。たくさん飲んだり食べたりして楽しんでいってほしい」
「呼んでいただけて本当に嬉しいです。だけど、私一人の力でできることは何もありませんでした。ルリスは私のために命を賭けてくれましたし、チユリさんやビケさん、少年や〈アネモネ〉や〈サバグル〉、バイマトさん、シュヴァリエ国の人たち⋯⋯他にも名前を挙げきれないくらい大勢の人に助けてもらったので、なんとかやってこれました。私だけ祝宴にお招きいただいてもいいのでしょうか⋯⋯」
そこまで話すと、輝く人が微笑んだのが分かった。なんて温かいんだろう。私がバターだったら、とろけていたはずだ。
「もちろん、全員を祝福するから安心しなさい。あなたを助けた者も、ネットで応援した者も、本人が行った通りに祝福を与える。今日はあなたを代表として招いたのだ。だから遠慮せずに楽しんでいってほしい」
幸せを独り占めしないで済むと分かり、プレトは安堵した。そこからは、少女や周りの人と話しながら楽しく食事した。
命令書が届いてから今に至るまで、崖っぷちを全力疾走しているみたいに怖くて辛くて大変だったけれど、そんなことなどどうでもよくなってしまった。それだけ幸せなのだ。こんなに幸せを与えてもらえるなら、なんだって耐えられる気がした。
出された料理は食べたことのないものばかりだったが、舌が抉れるかと思うほどに美味しかった。ルリスにも食べてほしいと心の底から思った。
(第108話につづく)
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