「とりあえず、けが人がいなかったのはよかったね」
こんなにもピンポイントで大きな施設が壊れること、これまでにあっただろうか。プレトが知っている限りではないはずだ。SNS上には、ムイムイハリケーンを恐れる声や、工場だけが壊れたことを不思議がる声が特に多く投稿されている。ルリスは携帯電話の画面に視線を落としながら話した。
「被害に遭ったのは、スパイク肺炎ワクチンの生産工場と、倉庫みたいだね。この街自体には、特に被害は出ていないらしいよ」
「この施設は土地が安い街外れにあるから、他に被害が出ずに済んだのかな。こんな大規模施設が壊れるようなムイムイハリケーンなら、直撃していたらこの家は確実に木っ端微塵だし」
「命拾いしたね。ワクチンの工場はここだけなのかな?」
「いや、国の施設だし、ほかにもあるはずだよ。でも、この壊れた施設が一番大きいだろうから、ワクチンの供給には大打撃だろうね」
「ワクチンの被害が、少しは抑えられるかな」
「うん。供給量は、がくんと下がるはず」
「やったあ⋯⋯よかったあ⋯⋯ほんとに嬉しい。皆んなを傷つける毒物が物理的に激減した⋯⋯!」
ルリスは携帯電話を握りしめている。プレトはふと思い出した。
「この現象さ、アレに似てない? 密林でケーゲルの膜に閉じ込められちゃったとき、脱出しようと頑張ったけど、上手くいかなかったじゃん。でも結局、奇跡的に雷がケーゲルに落ちたおかげで出られたよね」
「そんなこともあったね。あのときは祈ったら出られたよね」
「それに似てるなって思ったの」
今回も天候が奇跡的に味方してくれている。人知を超えた力が働いているとしか思えなかった。
「これで、ワクチンとムーンマシュマロのイタチごっこは少しマシになるかな。さて、そろそろ検察庁に行く準備をしよっか」
ルリスに促され、プレトは着替えた。ストライプ柄のレグルスは目立ちすぎるため、今日もタクシーで移動することにした。検察庁に着き、バイマトの名前を出すと、本人がすぐに出てきた。
「こんにちは。今日からよろしくお願いします」
バイマトは穏やかにそう言うと、空いている部屋へ二人を案内した。
「ムイムイハリケーン、通り過ぎて良かったですね。お二人のお家は、被害は出ませんでしたか?」
「なんともありませんでした」
「それはよかったです。私もなんともありませんでした。ワクチンの工場が壊れたのには驚きましたが⋯⋯もしかして、プレトさんがやったんですか?」
「まさか! そんなことできませんよ!」
「でも、優秀な科学者なんでしょ? ワクチンの解毒剤になる食品を作ったり、雲を固めたり、すごいですよね。気象兵器みたいなのも作れそうですよね」
「いやいやいや! そんなことできませんって!」
まさか、本気で疑っているのか?
「そうですよ! プレトがやったんじゃありません! 多分」
「多分ってなんだ! ルリスはちゃんとフォローしてよ!」
プレトが焦って、両手を顔の前でブンブン振っていると、バイマトは笑い出した。
「あはは、冗談ですよ。疑ったりしていませんから安心してください」
「は、はあ⋯⋯お堅い職業の人の冗談、怖いです」
「お二人が緊張しているようだから、和ませようと思って。プライベートの話になりますけど、私、〈プレパラート〉の投稿をSNSで見かけたおかげでスパイク肺炎ワクチンを食べずに済んだんです。半信半疑だったので、様子見をするつもりだったのですが、お二人の言う通り、体調不良者が続出したので、発信内容は本当なんだなって確信しました」
「そうだったんですか」
「庁内には、ムーンマシュマロでワクチンの悪い影響から回復した人もいるんですよ。助けてくれてありがとうございます」
「いえ、その、本望です。嬉しいです」
この人も助かったのか。イヤな目に遭ったりもしたが、救えた人とこうして話せるのは素直に嬉しかった。
「今回の裁判とスパイク肺炎ワクチンは別件ですが、ワクチンの工場が壊れたことで、向こうは様々なダメージを受けたと思います。所長の周りの人間は対応に追われると思いますし、裁判について多少は手薄になりそうですね。あの規模の施設を元通りに修復して稼働させるのはかなり時間がかかりますし、使えなくなったワクチンや材料分の損失も莫大はずです。天がプレトさん達に味方しているように見えますよ」
「そうだといいのですが⋯⋯裁判のこと、全く分からないんですけど、大丈夫ですかね?」
「大抵の人は裁判と無縁の人生を生きますし、分からないのが普通ですよ。何度かお話しして準備しますから安心してください」
「はい。よろしくお願いします」
「それで、次回の裁判でプレトさんが証言台に立つわけですが、それを『証人尋問』と言います。証人尋問では、検察官と弁護人から質問を受けることになりますし、場合によっては裁判官も質問をすることになるので、時間がかかります。先日の裁判はあっさり終わりましたが、次回はもっと長くかかると思っていてください」
「バイマトさんからも質問されるんですか?」
「そうです。私の質問内容は事前に伝えますから、練習できますよ。でも、弁護人や裁判官からの質問は練習しようがないので、ぶっつけ本番で答えることになります」
「好き勝手に話せるわけではないっていうのは、質問に答える必要があるからってことなんですね。不安しかないです⋯⋯こういうの、ルリスのほうが向いてそうなんだけどなあ⋯⋯」
プレトは正直に言った。
「所長はプレトさんを目の敵にしていて、ルリスさんはそれに巻き込まれた状況なので、プレトさんが証人になるのがいいと思いますよ」
「傍聴席で話した時のプレト、堂々としていてかっこよかったよ。あんな風に話せばいいんじゃないかな」
ルリスに励まされると、できそうな気がしてくるから不思議だ。バイマトは説明を続けた。
「緊張するのは当然ですし、上手に話そうとする必要はありませんよ。ただ、ウソはつかないようにしてください。偽証罪という罪に問われますから」
「今度は私が犯人になっちゃうってことですか」
「そうです。なので、正直に答えることに集中してください」
「分かりました」
その後も、裁判の流れについてざっくりと説明を受けた。一度では理解できないだろうから、徐々に頭に入れればいいとバイマトは言った。
「裁判は大体こんな感じです。そうだ、被告人である所長の顔を見たくないとか、逆に見られたくないとか希望があれば、証人尋問まで別室で待機したり、証言台に居る間も遮蔽物を置いたりできますが、どうします?」
「前回の裁判でガッツリ目が合ったので、全然大丈夫です。傍聴席で待機しますし、遮蔽物もいらないです」プレトは答えた。
「分かりました。今回は初めての打ち合わせなので、こちらまで来ていただきましたが、次回以降は電話やビデオ通話でも大丈夫です。少しずつ準備していきましょう。なんとしても所長が有罪になるよう、一緒に頑張りましょうね」
一回目の打ち合わせが終わり、プレトとルリスはタクシーで自宅に戻った。二人分のコップにジュースを注ぎながら、プレトは話した。
「バイマトさん、意外と話しやすい人だったね。検察官って堅物なイメージがあったよ」
「真面目な人だろうけど、〈プレパラート〉のおかげでワクチンを回避できたって言ってたし、こっちに好印象を持ってくれているのかもね」
「情報拡散の効果がここにも現れるなんて⋯⋯頑張っててよかったね」
「ねー」
コップの一つをルリスに渡し、自分のコップに口をつけた。ワクチンの関係者は今頃大変だろうな。所長が裁判中で、ワクチンの工場が壊れて、研究所もさらにパニックになっているかも。ふと気になって、プレトは研究所のホームページを覗いてみた。すると、とんでもない情報が目に入ってきた。
「ねえルリス! ヤバいんですけど! 研究所がサマーブロッサムを市場に出すってホームページに書いてる!」
「サマーブロッサム⋯⋯ん? 前にヤバいみたいなこと話していたよね? サマーブロッサムじゃなくて、ほんとはディユなんだっけ?」
「そう。研究所に潜り込んでる35日のスパイたちが、ディユをサマーブロッサムと偽って流通させようとしてるって話。少年のお父さんがテロ行為に遜色ないって教えてくれた件だよ。それが実現しようとしてる」
「え、このタイミングで流通させるつもりなの? どうしてだろう」
「所長が裁判中で、ただでさえパニクってるところに、ワクチンの工場が壊れる事故が重なったから、研究所の中は想像できないくらい混乱しているんじゃないかな。スパイたちはその混乱に乗じて、ディユをこの国で広めたいのかも」
ルリスは目を見開いたまま固まった。タイミングが想定外すぎて戸惑っているのだろう。しばらく瞬きもしていなかったが、やがて口を開いた。
「えっと⋯⋯わたしたちが今やるべきことは?」
「これまでの活動に加えて、出廷に向けた準備と、ディユの危険性について拡散すること」
「⋯⋯マルチタスクの鬼になれと?」
「そういうこと」
ルリスは力なくソファに腰かけ、呟いた。
「過労で倒れそう。無職なのに」
(第96話につづく)
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